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いつか伝える日がきたら・・・ー 2024.10.01 ー

第1章 子供はまだなの?

病院からの帰り道、私はよく公園のそばを通りました。その時、落ち葉を踏みしめながら思ったものです。「必ず、この道を我が子と歩いてみせる。」と。

今から十二年前、私は大学生の頃から付き合っていた主人と結婚しました。主人は大変子供好きで、結婚当初から子供が欲しいと思っていました。主人も私も、そのうちできると軽く考えていましたが、一年たち二年たち、周囲から

「子供はまだなの。」

と度々言われるようになりました。人に会うたび挨拶代わりに、

「子供は作らないの。」と言われ、時には、

「子供の作り方も知らないんじゃないの。」とも言われました。

それから、私より後に結婚した友達から次々とおめでたの報告が。焦った私はしばらく悩んだ末、思い切って近くの小さな産婦人科に行きました。

病院の中は薄暗く、診察室の中から声が聞こえてきました。

「子供をおろしたいんです。」

消えてしまいそうな小さな声でしたが、私にははっきり聞こえました。
『私にはなかなか子供ができなくてここに来たのに。この人はせっかくできた子供をおろしたいだなんて…。』

しばらくして出てきたのは、私より少し若い女の人で、おどおどしながら説明を聞いていました。その人の後ろ姿を複雑な思いで見送った後、すぐ私の名前が呼ばれました。
産婦人科は見舞いに行ったことはあるけれど、診察室に入るのは初めて。緊張して年老いた男の先生の前へ座りました。

「結婚して何年ですか。」
「三年目です。」
「基礎体温はつけていますか。」
「つけていません。」
「基礎体温をつけてからでないとなんとも言えませんが、とりあえず診察してみましょう。」

診察はすぐ終わり、もう一度先生の前へ座りました。
「多分タイミングが合わないだけだと思います。基礎体温を三ヶ月ほどつけて、もう一度来てください。」

けれど、私はあんな恥ずかしい思いをするのはもうこりごりだったので、二度と行く気はありませんでした。それでも、基礎体温だけは毎朝つけました。
始めはやり方が悪かったのか、体温が毎朝バラバラでしたが、次第にきれいな二相の線を描くようになりました。
二相になっているのは排卵がある証拠と本に書いてあったので、私はすっかり安心してしまいました。
ところが生理は、毎月一日も遅れることなくやってきて、期待しては生理のたびに落胆する…。その繰り返しでした。

そして結婚して五年目、初めて生理が遅れました。
しかしすぐ出血が始まりました。
私は当初落ち込みましたが、生理がきたら下がるはずの基礎体温は徐々に上がり続け、出血は微量のままでした。
かすかな期待を抱きながら妊娠検査薬をしてみると、なんと陽性。つまり妊娠しているという結果が出ました。
大喜びの私は、この事を主人に話しました。主人は驚き喜びはしましたが、とにかく明日病院に行ってから確認しようということになりました。

出血しているという不安の為、友人から良い先生がいると聞いていた総合病院に行くことにしました。片道三十分程かかるのですが、女の先生だということに惹かれました。

病院に着き、待合室で待っている間、周囲の妊婦さんが目に付きます。
待合室にある本も妊婦向けの情報誌が殆どで、とても眺める気にはなりません。私の目はテレビの方を向いていましたが、全く見えていませんでした。

二時間ほど待ったでしょうか。ようやく私の名前が呼ばれました。私の心臓はドキドキして今にも飛び出しそうでした。

第2章 初めての妊娠

診察室で待っていたのは、優しそうな女の先生でした。
私は少しホッとして、妊娠検査薬で陽性だったことと少し出血していることを伝え、基礎体温表を渡しました。
すると先生はその表を見た後、

「ちょっと診てみましょうね。」と言いました。

私の目の前のカーテンが少しだけ開けられ、黒い画面の白い機械が見えました。画面で白い影のようなものがぐちゃぐちゃに動き、やがて止まりました。

「分かりますか。これが赤ちゃんの袋かもしれませんね。」

私は少し体を起こして画面を見ました。確かに、小さな袋の様な物が見えます。

「まだ赤ちゃんは見えないわね。」と言った後しばらくして先生は、

「妊娠していますがまだ時期が早いのか、赤ちゃんが見えません。それに出血しているので、流産か子宮外妊娠の可能性もあります。」

話はまだ続いていたのですが、私は喜んでいいのかいけないのか分からず、呆然としていました。
ドラマでよくある、「おめでたですよ。」と言うシーンを期待していたのです。

先生に、「ご主人がいらしているのなら呼んできてください。」

と言われ、雲の上でも歩いているようにふわふわと待合室に向かいました。

主人を呼んでくると先生は、もう一度丁寧に説明してくれました。

妊娠しているが流産や子宮外妊娠の可能性があること。
出血やお腹が痛くなったら、すぐ病院に来ること。安静にしておくこと。
何もなくても一週間後診察に来ること。

主人が念を押すように、

「妊娠しているのは間違いないんですね。」と言うと、

先生は、「そうね。」と、無表情に一言だけ淡々と答えました。
今考えてみると、先生はこれがどういう結果になるのか、予想していたのかもしれません。
先生は私達に、楽観的なことは決して言わず、事実だけを淡々と言っていました。

その後、私達が部屋を出ようとしている時も、

「出血がひどくなったりお腹が痛くなったりしたら、すぐ来てください。何時でもいいですからね。」

と、もう一度言いました。

それから私は家へ帰り、主人は会社に行きました。あまり話はしませんでしたが、主人がどんなに喜んでいるのか、手にとるように分かりました。
数日たち、出血は止まりました。しかし、私の心の中は不安で一杯です。そんな時主人は、

「胎教にいい音楽のCDを買いに行こう。」

と言いました。私は誘われるままついて行き、CDを三枚買いました。
私は、『この子は駄目かもしれないのに。こんなもの買ったって…。』と少し不満に思っていました。
しかし主人は言いました。

「この子はまだどうなるか分からないけど、今このお腹のどこかに生きているのは間違いないんだから、親としてやれることはしてやろう。」

その時私は、フッと心が軽くなったような気がしました。
それからの私は、無事産まれてくることを信じるように努め、買ってきたCDを仕事のあい間に聞いたりお腹に話しかけたりしていました。

前回の診察から一週間経ち、診察を受けました。
しかし、画面には袋の中の真っ黒な映像が映っているだけです。先生から、三日後にまた来るようにと言われました。
そして、出血が始まったりお腹が痛くなったりしたら、すぐ来るようにと。
そして三日後、やはり赤ちゃんの姿は見えません。
先生は、私と心配してついて来てくれた主人に、子宮外妊娠の可能性がかなり高いと、厳しい口調で言いました。

そして、

「出血がなくても来週には入院してもらいます。それまでに出血やお腹が痛くなったらすぐ病院に来てください。ここは救急病院ですからね。真夜中でも何も心配しなくていいんですよ。」

と言った後、私達を安心させるためか、先生は初めて微笑みました。
私達は黙ったまま家に戻りました。そして部屋に入った途端、主人は泣き出しました。私は少し驚きましたが、心を落ちつけて言いました。

「まだこの子は生きているんだから、私は泣かないよ。」

「お前は強いな。」と言われたので、

「これでも母親だからね。」と笑って答えました。

正直言って、私の心の中はボロボロでした。診察に行く度に、正常な妊娠の可能性はどんどん低くなっている…。
先生ははっきり断言した訳ではありませんが、状況の厳しさは先生の話から充分理解できました。

『今度こそ袋の中の赤ちゃんが見えますように。』と、この数日の間に数え切れないほど祈りました。一人になると絶望感に押しつぶされそうな自分を、必死に励ましてきました。

『一パーセントでも可能性のある限り、絶対諦めない。』と、先生の言葉の中のわずかな可能性にすがって何度も誓ってきました。それなのに、今回先生は子宮外妊娠の事しか触れませんでした。
私は心の中で、先生の言葉一つ一つを思い出し、どこかに希望の持てるところがないか探してみましたが、何度探しても見つかりませんでした。
私の心は、麻痺したかのように不安も悲しみも殆ど感じなくなってしまいました。

第3章 子宮外妊娠

その当時、私は自宅で子供に勉強を教える仕事をしていました。
その頃はちょうど、生徒の一人が受験の最中だったので、どうしても仕事を休む訳にはいきませんでした。

けれど子宮外妊娠の場合、出血や腹痛が始まるとすぐ手術をしなくてはならないので、いつ急に授業ができなくなるか分かりません。私の体の中には爆弾があるようなものでした。
子宮外妊娠の可能性があると言われたその日から、私は変わりました。

一日教える度に、『もう二度と教えられないかもしれない。私の知っていることはできる限りこの子に伝えておきたい。』と一分一秒さえも惜しみ、いつもよりさらに厳しく教えました。
後で聞いたのですが、

「あの時の先生は普通じゃなかったよ。本当に怖かった。」

と、生徒は笑いながら言っていました。
確かに今思い出しても、あの時の私は普通ではなかったと思います。
この受験の大事な時期に、生徒の傍にいてやれないかもしれない…。その不安を少しでも打ち消そうと、せめて志望校に合格できると確信できるまでは授業しなければならないと、一日一日必死でした。

そしてようやく、合格できると確信しホッとした次の日の朝、左の下腹に鈍い痛みを感じました。
けれど大した痛みではなかった為、心の中で過ぎった不安を抑え、そのまま授業を始めました。
しばらくすると、今までに経験のないような強い痛みに変わりました。
どんどん大きくなった不安は確信に変わり、突然、死の恐怖に襲われた私は、こっそり隣の部屋から主人に電話しました。

「お腹が痛むんだけど、今授業中なんよね。」

「アホか!すぐタクシーで病院に行け!俺も急いで後から行くけん。」

主人に怒鳴られ、ハッと我に返った私は、病院に電話した後ノロノロと生徒の所に戻りました。

「ごめん、お腹が痛いからちょっと病院に行ってくるね。」

驚き心配してくれている生徒を笑顔で見送った後、タクシーを呼んで外へ出ました。
主人が連絡してくれたのか、そこには主人の父と母が待ってくれていました。
タクシーを断り、義父の車で病院に向かいました。私のお腹の痛みはどんどんひどくなり、少しの振動でもお腹に響いてきます。

病院に到着すると、先生は診察室で待っていました。たいして質問もされないまま、すぐベッドに横になるよう指示され、お腹に機械を当てられました。

「分かりますか。お腹は血の海で腸が泳いでいるわよ。すぐ手術します。」

「それは子宮外妊娠ということですか。」

「そうです。」

その答えは予想していましたが、いざ現実として突きつけられると、目の前は真っ暗になりました。ショックでしばらく口をきけませんでしたが、何とか声を絞り出すようにして聞きました。

「私は、これから子供を産めるのでしょうか。」

「そのように努力します。」

私は不思議と涙が出ませんでした。
麻酔科に電話している先生の傍らで、放心状態のまま座っていた私は、看護婦さんにトイレに行っておくようにと言われました。ようやく我に返り、何とか一人で立ち上がり普通に歩こうとしたのですが、左足を動かす度に下腹がひどく痛みます。左足を引きずりながら、何とかトイレに辿り着き便器に座ると、便器の中は赤く染まりました。その時、このお腹の子は本当に死んでしまったんだと初めて実感し、ショックでしばらく動けませんでした。

それからは病室に移され、次から次へと検査と説明が行われました。その合間に、私は義母に生徒へ電話するよう頼みました。
今から手術するのでしばらく授業ができない。そして今の実力ならちゃんと合格するので、自信を持って頑張るように。そして問題集の課題も出しておきました。

本当は、生徒を安心させるため、私の口から伝えたかったのですが、看護婦さんに止められ仕方なくお願いしました。

今思い出しても、この生徒には申し訳ないことをしたと思います。
受験の最中なのに…。その事を思うと、今でも胸がしめつけられます。

検査が全て終わり、手術室へ運ばれるのを待っていると、主人がやってきました。
主人の顔を見た途端、気が緩んだのか、初めて涙が一粒こぼれました。
先生に、主人が来るまで手術を延ばしたら命が危ないと言われていた為、手術前にはもう会えないものと思っていました。だから急に、今まで胸の奥にしまいこんでいた悲しみがこみ上げてきました。言いたいことがたくさんあるのに、一言でも話すと涙が止まらなくなりそうで、主人の言葉にうなずくのが精一杯でした。

病院に到着して二時間ほどで手術は始まりました。腰椎麻酔なので、先生や看護婦さんの会話をボーっと聞きながら天井を眺めていました。

後で聞かされたのですが、妊娠六週目でした。正常な妊娠なら心臓が確認できる頃です。

第4章 入院

手術は何の問題もなく終わり、その晩は主人が付き添い、全ての世話をしてくれました。
その日は、麻酔の副作用の為吐き気がひどく、吐き気とお腹の痛みで一晩中苦しみ、
『この苦しみが子供を産むためのものなら、どんな痛みも吐き気も絶対耐えてみせるのに。』と、やりきれない思いと失望感でぽろぽろ涙が出てきました。

次の日には、一般病室に移りました。
六人部屋で、他の患者さん達は長く入院している年配の方が多く、まだ身動きできない私に何かと口うるさく言ってきていましたが、私は全く気にしていませんでした。やっと手の届きそうだった子供を失ったばかりの私にとって、全てのことがどうでもよくなっていました。

そんな中、主人が受験中の生徒から、手紙を預かってきてくれました。その手紙には、
〈○○大学無事合格しました。今回のこと、母に聞いてびっくりしました。何も気がついてあげられなくてごめんなさい。
後の受験も頑張るので、心配しないで体を治してください。〉といった内容のことが書いてありました。
私はありがたくてうれしくて、そして本当に申し訳なくて、人の目も気にせず号泣してしまいました。

手術して三日目、周囲の人の計らいで個室に入ることになりました。
部屋に入ると急に静かになり、ポツンと一人取り残されたような寂しさが、私の心の中に広がっていきました。
大部屋にいた時は、人の出入りが激しくお腹の痛みもひどかった為、現実をあまり直視することはありませんが、個室になると、嫌でも現実と向かい合わなければなりません。

一日一日、痛みが薄れていくのと同時に、お腹の子を亡くした悲しみがどんどん大きくなっていきました。
『みんな結婚したら、当たり前のように元気な子供ができるのに。なぜ私達だけが五年目にやっとできた子を、こんな形で亡くさないといけないのか。この子は一生懸命生きようとしたのに助けてやれないなんて…。』

ぶつけるところのない憤りと悲しみが次から次へと湧いてきます。
この悲しみは身を切り裂かれたような…と言うより切り裂かれた方がましだと思いました。子供を亡くしたのに、私の体はどんどん元気になっていくのがたまらなくて、『こんな辛さを味わうぐらいなら、体の痛みを耐えているほうがましだ。』とも思いました。それでも人には同情されたくなかったので、見舞客には無理して笑顔で応対しました。

何日か過ぎた頃、ボーっとテレビを眺めていたら、あるタレントの妊娠会見が始まりました。レポーターの人達が、
「おめでとうございます。」と言うと、
「ありがとうございます。」と、うれしそうな笑顔。

『私だって本当は…。』

「今何ヶ月ですか。」と会見は続いています。

『ああ、同じ頃だったんだ。』

「予定日はいつですか。」

『ちゃんと子宮の中にあの子がいたなら、その頃には産まれるはずだったんだ。』

うれしそうに話しているその顔を見ていると、私の中で妬みが大きく膨らんでいきました。
私はたまらなくなってテレビを消すと、部屋の中が急に静かになり、今度は廊下から声が聞こえてきました。

「おめでとうございます。」と楽しそうな会話が始まり、
「赤ちゃんはどこ。」と子供の弾む声が聞こえてきました。

私は、ここは地獄だと思いました。

「赤ちゃんが盗まれた!」というニュースをたまに見かけますが、その事件の背景を聞くと、犯人達の気持ちが分かる気がします。
もちろん、この犯人達に同情の余地はありません。盗まれたお子さん達はどんな怖い思いをし、またご両親はどんなに心配し、眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。たとえ赤ちゃんが無事ご両親の元へ返されたとしても、この心の傷の代償は決して償えるものではありません。

しかし子供ができないということで、周囲の何気ない言葉に傷つき、自分を追い詰めてしまうこともあるのです。
なのに、結婚すれば次は子供を早く作れと、周囲はうるさく言ってきます。
確かに、近頃子供を作らない夫婦が多いと聞きます。
しかしそれは、一部の人達のこと。そういうことも分からず、無神経に人の気持ちを逆なでる人があまりにも多すぎます。

私自身、子宮外妊娠以来、幸せそうな妊婦さんを妬み、赤ちゃんを抱いているお母さんを妬みました。そんな自分が嫌で、その人達の姿を見かけると目を背け、赤ちゃんの泣き声がすると耳を塞いでいました。
しかし、私はそういう気持ちを全て隠し、笑いたくもないのに笑っていました。

第5章 子供は産めるの?

入院中、先生は毎日病室にやってきて声をかけてくれました。
頑なだった私も、先生の温かい心遣いに触れ、次第に先生を信頼していきました。
入院して何日目だったでしょうか。手術後何も聞かされていなかった私は、

「先生、手術の結果はどうだったんですか。」と尋ねました。すると、

「やっぱり左の卵管に着床していたので、卵管をとりました。今病理に出しているので、詳しくは後で説明しますね。」

という答えでした。そして、私は手術以来ずっと気になっていたことを、思い切って聞いてみました。

「私は子供を産めるんでしょうか。」

「そのことについては、退院の時お話します。その時は、ご主人も一緒のほうがいいでしょう。とにかく今は、体を治すことだけ考えなさい。」

私の心の中はますます不安が広がり、先生に詰め寄りました。

「だけど…私は…。」

先生に聞いてもらいたい事がたくさんあるのに、後から後から涙がこみ上げてきて声になりません。
すると先生は私に近寄り優しく、

「気持ちは分かるけど、まずはしっかり体を治しましょうね。」

とだけ言いました。
そう言われると、私はこれ以上聞くことができませんでした。

それから退院の日まで、一日でも早く退院することばかり考えていました。
退院前日は風邪をひいていて、先生や主人から退院を延ばすようにと言われたのですが、何を言われても聞き入れませんでした。
そして退院の日、主人と私は先生に呼ばれ、説明を受けました。

左の卵管に受精卵が着床し、子宮外妊娠になったこと。
妊娠六週目だったこと。
そしてちょうどいいタイミングで手術したので、輸血しなくてすんだこと。

それから切除した部分─私達の子供の部分の写真を見せてくれました。
赤黒いレバーのような塊で、もちろん人の形にもなっていません。
私の中で、なんとも言い表しようのない感情が湧き上がり、一生目に焼き付けておこうとその写真をじっと見つめていました。
その時先生は、

「あなたのお腹を開けてみて分かったんだけど、子宮内膜症だったのよ。」と言いました。

それは初めて聞く病名で、子宮内膜によく似た組織が、子宮内膜以外のところで増殖して、月経の時期に剥がれ落ちて出血を繰り返してしまう病気だそうです。

「それに今回、片方の卵管をとってますからね。調べてみないと分からないけど、結婚して五年間、一度も妊娠しなかったということは、今残っている卵管も詰まっている可能性が高いと思うの。…自然での妊娠は難しいでしょうね。」

子供を亡くした上に自然の妊娠は難しい…。

女であることを否定されたようで、頭を後ろから思いきり殴られたような、ものすごいショックでした。風邪気味という事もあり、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃです。
先生はテイッシュを渡しながら、

「まだもう片方残っているんだから、そっちを調べてみないと分からないのよ。それに、もし詰まっていても、体外受精という手があるのよ。」

『体外受精?私は他人の力を借りないと子供一人作れない体なの?子宮外妊娠になったのは私の卵管が詰まっていたから?卵管がちゃんと通っていたらこの子は死なずにすんだ…。』
いろんな思いで頭の中は混乱し、涙がますます溢れてきました。泣いている私をしばらく見ていた先生は、静かにこう言いました。

「この子はそういう運命だったのよ。万が一産まれてきても、短命や障害児の可能性があったと思うわ。あなたはそういう子を抱えて生きていく覚悟があるの?」

正直言って、それはその時の私にとってつらい言葉でした。
けれどそのお陰で、自分自身をあまり責めずにすんだと思います。
亡くなったこの子のことを思い出す度、『この子は弱かった。そういう運命だった。』と自分に言い聞かせると、少し心が救われる気がしました。

先生は最後に、

「世の中には、医学的に見て、妊娠は困難だと思われる人がたくさんいるの。でも、私は今まで、そんな人達が妊娠・出産する奇跡をたくさん目の当たりにしてきたわ。今のあなたたちに言ってもピンとこないかもしれないけど、信じて決して諦めないで。」

と言いました。

しかし、その時の私たちには、先生の言葉が全く聞こえていませんでした。

第6章 子供が欲しい

退院して一ヵ月後、卵管が通っているかどうかを調べる検査をしました。
造影剤を入れ、子宮をレントゲンで写しましたが、造影剤が漏れたらしく、うまく写らず失敗に終わりました。

その一ヵ月後、再び同じ検査をしました。
モニターを見せてもらうことを許された主人の話では、最初はなかなか卵管が見えなかったそうですが、しばらくしてスッと卵管が見えたそうです。
一応卵管が通っているということが確認でき、少しほっとした私は、その後、そのまま通院して不妊治療をしていくことに決めました。

不妊症であることを認めざるを得なかったあの退院の日から、私は少し変わったように思います。
人から、「子供はまだ?」と言われても、前ほど嫌悪感を覚えなくなり、少しずつ夫婦二人だけの人生についても、冷静に考えられるようになりました。
その一方で、まだ子供を諦めきれない私達は、通院し先生の言葉を忠実に守ることで希望をつないでいました。

テレビでは、ゴミ袋から胎児の遺体が出てきたとか、乳児の夜泣きがひどいからとせっかん死させたとか、信じられないニュースが度々流れています。
その度に私達は、『じゃ、なぜ子供を作ったの?そんなにいらない子なら私達にちょうだいよ!』と、ものすごい怒りがこみ上げるばかりでした。
なぜ神は、そんな人達に子供を授けるのでしょうか。世の中には、子供が欲しくてもできない夫婦が大勢いるというのに…。

私はその子供を殺した人達に、怒りを超え憎しみさえ感じていました。
あの時の私は、まだ深い悲しみの中から抜け出せずにいました。
人の形にさえなっていなかったわが子でも、一人で逝かせてしまった事がかわいそうで、思い出してはよく泣いていました。そんな私にとっての僅かな救いは、私の体の一部である卵管に包まれて逝った事。そして、あの子が生きていた証が手術の傷跡として、体に刻まれたことです。

ずっと悲しみから抜け出せない私は、早く気持ちを切り替えて先に進まなければと焦りました。
しかし、他の事で気を紛らわそうとしても、もうお腹の中は空っぽだという寂しさと悲しみがこみ上げてくるばかりです。そして、もう二度と子供を作ることができないかもしれない…。
そんな大きな不安が足かせとなり、ずっと私を苦しめ続けました。
ちょうどその頃、ある人に子宮外妊娠のことを、

「そんなことぐらいで…。」

と言われ、私は更に苦しみました。
いつまでも心の整理をつけられないのは、どこかおかしいのではないかと本気で悩みました。
そんな私を心配して、周囲の人は子供の事は絶対言わないか、

「そのうちまたできるよ。」とか、

「早く忘れたほうがいいよ。」と言ってくれていました。

しかし、その時の私は普通ではなかったのでしょう。その言葉一つ一つに傷つき、自分を追い詰めていきました。

『お腹に傷があるのに、どうやって忘れろって言うの!生理が来る度、私がどんな思いをしているかあなたに分かるの!赤ちゃんがテレビに映ったからってチャンネルをかえないでよ!同情なんて真っ平!亡くなった子は二度と戻ってこないのよ!またできるなんて簡単に言わないでよ!』

実際、これらの言葉を口にしたことはありませんが、私は心の中でいつも叫んでいました。

そして主人もまた、悲しみから抜け出せず、もがき苦しんでいたのだろうと思います。
手術室の前で頭を抱えて泣いていたこと。私の入院中、一人でいるのがたまらなかったのでしょう。
近所の友達夫婦を呼んで、酒を飲み号泣したこと、人から聞きました。
そんな主人は、毎日毎日悲しんでいる私を、どんな思いで見ていたのでしょう。
そんな時主人が私に言った、「早く忘れろ」という言葉…。
それは主人自身にも言い聞かせていたのではないか…。

私は、そのことを最近になってようやく気づきました。けれどその時の私は、『誰も私の気持ちを分かってくれない。』と、頑なに自分の殻に閉じこもっているばかりでした。

そんな中、義姉から電話がありました。その時義姉は、

「つらかったね。」

と声をかけてくれました。

義姉は出産時に最初の子を亡くしています。
義姉のこのたった一つの言葉は、私の心にまるで乾ききった砂に水をまいたかのように、すっと沁み込んでいきました。
私は、ずっと義姉や兄の悲しみを分かったつもりでいたのですが、本当は何も分かっていなかったのです。

私はたった六週間子供がお腹にいただけでこんなに悲しいのに、十ヶ月間もお腹の中にいた子を失った悲しみはどんなに深いだろう。
子供が産まれた時の夢も描いていただろう。
子供の物もいろいろ揃えていただろう。

後にも先にも、そのことについて話したことはありませんが、この時初めて義姉の悲しみに触れた気がしました。

病院に通い始めて一年が経とうとした頃、先生から話がありました。

「このままこの病院に通ってもいいけど、早く子供が欲しいのなら、体外受精をした方がいいと思うの。ここでは体外受精はできないから、S病院で検査だけでも受けてみない?」

と言われました。正直言ってショックでしたが、この時は既に、こういう日が来ることを覚悟していました。

先生の助言に従い、私たちは不妊治療専門のS病院に通院してみることにしました。
その病院の駐車場には多くの県外車があり、待合室には大勢の患者さんが待っていました。

車椅子に乗った人、大きなスーツケースを持って飛行機の時間を気にしている人、四十歳過ぎでしょうか、少し年配のご夫婦、どこかの国の民族衣装を身につけた外国人…。
深い悲しみや不安を心の奥に秘め、犠牲を払いながらも必死で不妊治療を続けている人達がこんなに大勢いると気がついた時、ようやく私の中で、あの手術の日以来止まっていた時間(とき)が、ゆっくりと流れ始めました。

第7章 決断

新たに通ったS病院。その日の検査は、紹介状のあったお陰で一日で終わり、その日のうちに結果が出ました。
それは

「子供を作るには体外受精しか方法はない。」

というものでした。
それも、子宮内膜症がかなり進行している為急いだほうがよいということでした。
結局、主人には全く異状がなく、不妊の原因は全て私だったということが明らかになりました。

医学の進歩は時に残酷です。
私は、主人に本当に申し訳ないと思いました。

『あんなに子供が好きな人なのに…。私と違う人と結婚していたら、今頃はわが子を抱いていたかもしれない。私と出会って結婚したばかりに…。』

いけないと思いながらも、そう思わざるを得ませんでした。
その頃主人は、

「子供はいらない。夫婦で仲良く生きていければそれでいい。」

と言っていました。

こういう主人の心遣いがありがたい反面、つらくもありました。
友達の子供と一緒に遊ぶ主人はとても楽しそうで、『私はこの人に、一生子供を作ってあげられないかもしれない。』と、申し訳ないという思いが、いつも私の頭の上に重くのしかかっていました。

体外受精という言葉を知らない人はいないと思いますが、体外受精をするか、夫婦二人だけの人生を歩むのか、いざ自分がそういう選択の場に立たされたとしたらどうでしょう。

もちろん、二人だけの人生についても考えました。
年々共通の話題も少なくなり、一緒にいてもテレビを見て笑うのが関の山。
日常生活を淡々と送り、二人で築く夢もなければ守るべき者もない。
一見幸せそうに見えますが、本当は寂しいものです。お互い好きなことをして楽しんではいましたが、楽しいのはその時だけで、時が過ぎれば虚しさが残ります。

自然の妊娠ができない─それは、私達は子供を持たない夫婦であるよう、運命づけられているということかもしれません。
その運命に従うのも一つの道です。
しかし私達は年老いた時、「あの時体外受精をしていれば…。」と、後悔だけはしたくありませんでした。
子供を授かる方法があるのなら、可能性のある限り努力する…。
これが私達の出した結論でした。

世間では、体外受精という言葉が一人歩きしているようですが、体外受精のことを一体どれだけの人が理解しているでしょう。ですから私は、体外受精で産まれた子供達は、そういう人工的な方法で産まれたことを知った時、コンプレックスを抱いたりしないだろうか、いじめにあったりしないだろうか…。
子供を授かった今も尚、そんな不安が心を過ぎることがあります。

さて、体外受精をするためには、現在保険適用外の為、莫大な治療費がかかります。
それに、一回すれば妊娠できるという確証もありません。
私は主人と相談し、以前にマンション購入の資金にでもするようにと、私の母から貰った指輪をお金に換えることを考えました。

マンションを買う時は、貰った物をお金にしてしまう事に抵抗がありましたが、今回は使わせてもらうことにしました。
早速母に事情を話し、了解を得て知り合いの貴金属屋さんに聞いてみると、今は宝石の価値が下がっているので、売らないほうがいいということでした。母の方でもあたってみてくれたのですが、やはり同じ答えでした。
途方に暮れていると、

「応援するから頑張りなさい。」

という、母からの申し出があり、悩んだ末、私達はありがたく好意を受けることにしました。
体外受精をしたくてもお金の都合がつかず、泣く泣く諦める人もいる中、本当に感謝しています。

そして私は、S病院で検査を受けた翌月には体外受精を始めることができました。
治療はS病院ですが、総合病院の先生にもいろいろな面で助けていただきました。

第8章 3回の体外受精

私の治療内容は、生理が始まるとすぐ、卵子を複数採取するため排卵誘発剤を注射し、決められた時間に薬を点鼻します。それは、卵子が十分成熟するまで毎日続けます。
その間、注射を一日でもとばしたり薬の時間を間違えたりすると、途中で排卵したり卵子がうまく育たなかったりします。

そして観察し、十分成熟したら、排卵を起こさせるホルモン剤を注射します。その二日後には採卵します。
採卵の時は全身麻酔をし、その後しばらく安静にして帰ります。

次に、採卵した卵子は培養され、精子と受精させます。
そして二日後の朝、病院に電話して受精卵が分割しているかどうかの確認。
分割が確認されると、その日の何時に病院に来るよう指示が出されます。
受精卵の分割が確認され、連絡を受けた私は、受精卵を子宮に戻しました。
麻酔はせず、長い管のついた注射器で、モニターで確認しながら行いました。
私の場合、産道が曲がっていて管が入りにくかったようで、毎回痛い思いをしました。
けれど、この日のために頑張ってきたのですから、痛みも全く苦にはなりませんでした。

体外受精終了後は、ずっとストレッチャーに乗ったまま三時間、起き上がることはもちろん、腰を動かすことも許されませんでした。
寝返りも打てない状態での三時間の長いことといったら!しかし、これで体外受精全ての過程が終わりです。
これで生理がこなければ、めでたく妊娠ということになります。
私は数冊の雑誌を持ち込み、何とか時間をつぶしました。

体外受精は、いつ終わるか分からない孤独な闘いです。正に、先の見えないトンネルに入ったようなものです。
排卵誘発剤の副作用で、私の卵巣は腫れ腹水は溜まり、洋服の上からもお腹が出ているのが分かりました。
それに、一度の体外受精で妊娠するとは限りません。

体外受精をする度、私達夫婦は過度に期待し、失敗しては二人で涙を流しました。
『まだ子供を諦められない。もしかしたら次は…。』と、また一から始め、同様に期待してしまうのです。
しかしその一方で、いつか子供を諦め、体外受精をきっぱりやめる決断もしなければならないと、冷静に考えている自分がいたのも事実です。
私は、その冷静な考えにどうしても従うことができませんでした。

毎日注射をするため、木枯らしの吹く中、往復三時間かけて病院に通い、副作用で腹水が溜まって、体調が悪くなりました。
しかし、全くつらさを感じませんでした。
それは、こうして治療を続けている限り、子供を持つという希望をわずかでも持てるからです。
子供が生まれた時の夢を描くことができるからです。私は、そういう希望や夢だけを頼りに、黙々と治療を続けました。
そして主人も、何の文句も言わず、全面的に協力してくれました。

しかし、結局三回の体外受精が失敗に終わりました。
三回目の挑戦が終わった時、主人は私に、

「もう体外受精は諦めて、二人で生きていくことを考えよう。」

と言いました。

主人は何も言いませんでしたが、主人がどんなに子供を欲しがっているか。
そして、この三回の体外受精でかなりのダメージを受けた私の体を、どんなに心配しているか、私は痛いほど分かっていました。
それは、母からも、

「そろそろ体をいたわるように。」

と、注意されたばかりの頃のことでした。
そんな主人や母の気持ちに感謝しながら、

「もう一度だけやらせて。今度が駄目だったら諦めるから。」

と頼みました。主人はそれ以上何も言いませんでした。

しかし、四回目の体外受精に入る前に、母が交通事故で足を複雑骨折してしまいました。
私は、母の身の回りの世話と家業の手伝い、そして私自身の仕事で、実家と自宅を夜中のフェリーで往復する日々を送らなければならなくなりました。
その結果、体外受精はしばらく休むことになりました。

第9章 人生を賭けた4回目

数ヶ月経ち、ようやく母の具合も快方に向かい、ある程度体を普通に動かせるようになった頃、私は再び体外受精を始めました。
今までと同じような過程を辿り、四回目の体外受精も無事終わりました。

期待と不安を抱えたまま私は、時間が過ぎるのをひたすら待ちました。
すると今回は、生理予定日を過ぎても全く生理の兆しがなく、私は期待が高まるのを抑えながら、病院の指示通り妊娠検査薬を買ってきました。

トイレに入りしばらくすると、検査薬の白い小さな二つの窓に、赤いラインがはっきり現れました! 私はすぐに、トイレを飛び出して主人に検査薬を見せました。

「間違いないよね?ちゃんと妊娠しているんだよね?」

と何度も確認した後、私の目から涙が溢れました。

しかし、以前の子宮外妊娠の事が脳裏に浮かび、まだまだ素直に喜ぶことはできませんでした。
翌日の診察を待たなければならないその日の夜は、私にとって本当に長い夜となりました。
緊張で寝つけないまま朝を迎え、主人と私は朝早く病院に向かいました。

診察を終えた結果、間違いなく「妊娠」ということが判明しました。
それもモニター画面で二つの袋が見え、双子だということも確認されました。

体外受精以外の妊娠を望めない私にとって、それがどんなに素晴らしくうれしいことだったか!

しかし、まだ姿が見えないうちは安心できないと、はやる気持ちを抑え、姿が見える日をひたすら待ち続けました。
一日千秋の思いというのは、こういう気持ちのことを言うのでしょうか。
一日一日がとてつもなく長く感じ、出血することなく一日が終わるとホッとしました。
「待つ」ということを、こんなに長く苦しく感じたことはありません。

それは、今回の体外受精に失敗したら、子供をきっぱり諦め、私自身の生き方についても考え直すつもりでいたからだと思います。

私達は、この四回目の体外受精に私達の人生を賭けていました。

第10章 双子

一日一日不安が募り、大きな不安で押し潰されそうになった私は、その不安な気持ちを日記につけてみることにしました。
すると、それはいつの間にか、まだ見えない子供達へのメッセージとなり、私自身の心の内を記すことで、私も少しずつ落ち着きを取り戻していきました。

妊娠反応が出て十七日目、ようやくエコーで二人の姿が確認されました。

「二人とも元気ですよ。」

この言葉がどんなにうれしかったことか!
子宮外妊娠の時の子は、人として扱われることなく死んでいったことが、とても哀れに感じたものでした。
ですから今回、お腹の子が初めて人間として認められた事がうれしくて、私は思わず涙ぐみました。
この日のことは、一生忘れられません。

「双子の妊娠は、つわりも危険も、一人の妊娠の時の二倍と思っていたほうがいいだろう。双子を産むということはとても大変なことだけど、産まれた時の喜びはきっと十倍になる。頑張れ!」

という先生の温かい励ましを胸に、私は元の総合病院へ通院する事になりました。
エコーに心臓が映った頃から、私のつわりは始まりました。毎日体はきつかったけれど、つらいと思ったことは一度もありません。
それは、吐くということで妊娠を実感できたからです。なんだか子供たちが、

「二人とも元気だよ。」

と教えてくれているような気がして、吐く度に心が満たされていくのを感じました。
けれど、食べ物をほとんど受けつけられなくなった私は、一・二週間に一度吐き気止めの点滴をしながら、何とか生活していました。
味噌、醤油、ご飯の炊ける匂いが全く駄目で、ご飯は洗面所を閉め切って炊きました。
すんなりお腹に収まってくれるのは漬物と氷菓子だけだったので、一日中ガムをかみ、どうしても吐き気が治まらない時は氷菓子と漬物を少しずつ食べました。
そんな状態ではありましたが、どんなに吐いても、きちんと三食食べることは心がけていました。

それは、食べられなくなると入院することになると、先生に注意されていたからです。それに、双子の妊娠は妊娠中毒症になりやすいということも聞かされていました。
その時、私の最後の生徒が受験前という事もあり、特に健康管理には気を配っていました。
その時は寒い時期だったにも関わらず、風邪一つひく事なく、双子の妊娠では必ず出ると言われていた貧血やタンパクも、ほとんど出ることはありませんでした。

結局、つわりは三ヶ月続き、体重は六キログラム落ちました。

第11章 夫の支え

年末にはようやくつわりも治まり、急にお腹が大きくなり始めました。
すると急に食欲が出てきて、年末年始と重なり食べ過ぎたようで、体重が急激に増加しました。
年が明け、一月七日の健診の時、

「双子の妊娠だからって、三人分食べたらいいというものではないのよ。ただでさえ安静で体を動かせないんだから、1200キロカロリーぐらいの食事を心がけなさい。妊娠中毒症になるわよ。」

と、先生に注意されてしまいました。

浮かれて少し油断したと反省した私は、栄養士だった叔母に相談し、1200キロカロリーのメニューが載っている本を貰いました。
それからは徹底してカロリーを減らし、食事内容もそれまで以上に気をつけるようになりました。
しかし、この時期はいつも空腹で、食事制限なんて今までした事のない私は、気を紛らわすのも一苦労でした。
けれど、この頃になると胎動を感じるようになり、子供が産まれた時の事を想像して、安静と言われながらも、結構そういう生活を楽しんでいました。

今思えば、この時期が一番呑気に過ごしていたと思います。

そんな気楽な時期は一ケ月ほどで終わり、妊娠六ヶ月になると、子宮の大きさが単胎妊娠の場合の八ヶ月ぐらいの大きさになりました。
すると、肩は凝り腰も痛くなって、横になってもお腹がつかえてなかなか寝る体勢が決まらないという様な状態になってきました。

そして一つ一つの動作もきつくなり、日常の家事をこなすのも大仕事でした。
そうこうしていると妊娠七ヶ月に入り、今度はお腹の張りが急に激しくなりました。
それは双子の妊娠の場合、定員一名の子宮の中に無理に入っているので仕方ないそうです。

しかし最低でも、子供の肺機能が出来上がる34週まではお腹の中から出さないほうがいいということで、病院で処方してもらった張り止めの薬を飲み始めました。
しかしあまり効果はなく、夜になるとパンパンに張って怖くなることが度々ありました。

主人は仕事で夜遅く帰るのがほとんどで、時には明け方に帰ってくる事もありました。
ですから、私は毎日ほとんど一人で過ごし、家事を一通りこなすと後は出来る限り横になるという生活を送っていました。
その頃の私は、何かする度にお腹が強く張るので、常に冷や冷やしていました。主人がいない時間が多いだけに、何かあった時の不安はいつも私の中にありました。
妊娠8ヶ月になると、薬の副作用で体調を崩し、食欲もなくなってきました。心配した主人は先生と相談し、

「入院はまだ嫌だ。」

と嫌がる私を半ば強引に入院させました。
やはり無理をしていたのでしょう。
入院すると、張りが少し治まりました。それに、いざという時先生や看護婦さんがいてくれるという安心感で、今まで何かあっても一人で対処しなければならないと、一日中あった緊張感がほぐれていきました。
しかし、入院した二日後には飲み薬では張りが治まらなくなり、点滴を打つことになりました。
点滴には二十四時間一定量保つため、機械がつけられていました。
それからは絶対安静です。食事とトイレへ行く時以外は、体を起こすことも許されませんでした。

入院した当初は体調が悪かったのですが、点滴を打ち始めると次第に元気になっていきました。
すると私は、急な入院で心配をかけた人達に連絡しなくてはとの思いから、安静といわれているにも関わらず、点滴片手に公衆電話をかけ始めました。
しかし、そこで先生に見つかり、

「あなたは安静の意味が分かっているの?本当はトイレだって行って欲しくないぐらいなのよ。」

と叱られ、渋々寝たきりの生活を再び送り始めました。
主人は、毎日仕事が終わると真っ直ぐ病院に来て、身の周りの物を届けてくれました。
しかし、面会時間にはなかなか間に合わない事も度々でした。
他の患者さんには見舞い客が来ている中、一人で寂しい思いもしましたが、先生の許してくれた消灯までの面会時間に間に合った時は、少しだけでも話して帰るという毎日でした。

消灯時間にも間に合わず、一日中誰も訪ねてこなかったという日も珍しくはありませんでした。
その様な中、入院中の妊婦さんと親しくなり、寝たきりで動けない私の所へ度々遊びに来てくれたり、友達や私の両親が何度か見舞いに来てくれたりしたことが、単調な入院生活の中で、心の慰めとなりました。

その頃、主人は本当に大変だったと思います。
朝は私の着替えを持って家を出て、仕事が終わると病院に直行したようです。
そして、消灯時間になると家に帰り、それから猫や鳥の世話、洗濯・掃除を済ませ、次の日の私の着替えを用意した後、ようやく眠りについたようです。

しかしその時の私は、夜になると主人がやって来るということが、一日一日の支えになっていました。
だから、主人が大変なことを分かっていながらも、「早く来て」と、訴え続けていました。
そんな私に、主人は嫌な顔一つせず、いつものように冗談を言っては笑わせてくれました。

第12章 不安な日々

桜が満開を迎えた頃、三十週に入りました。
お腹の中の二人の位置が下がり、それより下がらない為に、腰をずっと上げておくよう指示が出されました。
その頃には点滴の濃度は二倍となり、量もどんどん増えていきました。するとその副作用により、動悸と手の震えが始まりました。

看護婦さんの話によると、その時の私の脈拍は、一日中全速力で走っていたようなものだそうです。寝たきりで何もしていないにも関わらず、私は、一日中疲れきっていました。
さらに、子宮が大きくなって胃が圧迫されるのか、吐き気にも悩まされ、食事もわずかしか喉を通らなくなりました。

目標としていた三十四週を超えると、点滴の量はさらに増え、副作用はひどくなる一方なのに、お腹の張りは相変わらずです。毎日不安を抱えたまま一日を過ごし、夜になるとさらに張りがひどくなり、心配でたまらなくなった私は、看護婦さんに不安をぶつけました。
しかし、誰にぶつけても中途半端な慰めや励ましの言葉ばかりで、私はだんだん苛立ちを覚え始めました。

ある看護婦さんがそんな私を見て、寝たきりの状態でいらいらしていると思ったのでしょう。

「今の状態なら帰れるよ。」と言いました。

その言葉を聞いてすっかり安心した私は、

「一度帰りたい。」と先生に言いました。すると驚いた先生は、

「とんでもない!今点滴を外したら陣痛が始まってしまう。絶対安静よ。」と言いました。

先生と看護婦さんの話が全く違うので、私の頭の中は混乱してしまいました。
ずっと寝たきりだというストレスもあったのでしょう。私は、主人の前で声を上げて泣いてしまいました。
主人は、『何の為に入院しているんだ!』と私を叱りとばしました。

しかし、後で先生と話し合い、一度だけなら車椅子で病院内を動いていいという許可をもらってくれました。
主人は車椅子を押しながら、先生と話したことをポツリポツリと聞かせてくれました。
私が精神的に相当参っているようだ。肉体的にも限界が来ているのだろう。そろそろ出産の時期が来たのかもしれない─先生はそんな事を言って、車椅子での外出を許してくれたそうです。

入院以降初めて外の空気に触れると、初夏を思わせる気持ちのいい風が吹いていました。
空を見上げると雲一つありません。私は、外へ出られたことがうれしくて、そして先生や主人の気持ちがありがたくて涙がポロポロ出てきました。
それからは先生の言葉を信じ、不安を口にはしませんでした。

しかし、字が書けないほどの手の震えや動悸、吐き気や強い張りにいつまで耐えられるのか。
そしていつまで耐えなくてはならないのか。
こんな状態で、子供は本当に無事産まれてくるのか―私は一日に何度もカレンダーを見ながら、一日中ベッドの上でそのことばかり考えていました。

それから数日後の五月八日の早朝、出血の後、強い張りが続くようになりました。
それで点滴の量を上げると、手ばかりでなく足まで震えはじめました。
その上動悸もひどくなり、何度も吐くようになりました。すると、今まで何とか口に押し込んでいた食べ物も全く喉を通らなくなり、ついには強い張りの時子供の心音が何度か下がるようなことが起こり始めました。

診察を受けた結果、子宮口が少し開いてきており、これ以上状態の悪い母体に子供を入れておくのは危険だという結論に達しました。そしてとうとう、五月十二日、帝王切開と決まったのです。

手術の日が決まった途端、不思議と私の心は落ち着きを取り戻し、一方主人は、急に動揺し緊張し始めたようでした。

第13章 出産の日

手術前夜、主人が帰った後、私は今まで書いてきた日記全てを読み返しました。
結婚後、なかなか子供ができなくて悩んだ日々、子宮外妊娠、不妊治療、四回の体外受精、双子の妊娠、そして四十六日間の寝たきりの入院生活…。

今までのことが鮮やかに蘇ってきます。本当にいろいろな事がありました。涙を数え切れないほど流し、子供を持つ夢を何度諦めようとしたか分かりません。けれど、私達はもがき苦しみながらも、体外受精という小さな希望の光だけを頼りに、必死で努力してきました。全ては明日という出産の日を迎えるために…。
手術前夜にも関わらず、その時の私には全く緊張はなく、心の中はやれることはやったという満足感で満ち溢れていました。

ぐっすり睡眠をとった五月十二日の朝、手術のための検査と説明が全て終わると、四十三日間つけられていた点滴全てが外されました。液漏れで数日おきに針をあちこちに移した為、私の両腕は、もう刺すところがないほど見るも無残な状態でした。
しかし、私の心はとても晴れやかで、手術前の準備でやってくる看護婦さんや心配して覘いてくれた入院中の友達に、「お腹すいたあ。」などと言って笑い合うほど落ち着いていました。

時間が経つにつれ、点滴が外されたせいか、お腹が痛むほどの強い張りが度々起こり始めました。しかし、私には何一つ不安はありません。後はもう、運を天と先生に任せるだけです。
「そろそろ手術室に行きますよ。」という看護婦さんの声を聞くと、私の全身を緊張感が走りました。その時の私には、怖いものは何一つありませんでした。

手術は午後二時から始まりました。手術室には先生を始め、八名のスタッフが入りました。
まず、背中から針を入れ下半身を麻酔し、効いてきたのを確認すると、お腹にメスが入ったようでした。しばらくすると、プシューという空気が抜けるような音のする中、まず一人目が取り上げられました。
ガガガと何か吸引する音がした後、夢にまで見た我が子の泣き声が聞こえました。
一人目は一七五二グラムの女の子でした。先生は、もう一人取り上げるのに少し手こずっているようです。
後で聞いた話ですが、足にへその緒が絡まっていたそうです。
まだかまだかという不安にかられながら、ついにもう一人が取り上げられました。二人目は一八五六グラムの男の子です。

一人目が出てきてからもう一人出てくるまで、私にはずいぶん長く感じられたのですが、たった二分のことでした。
タオルにくるまったとても小さな小さな二人を見ると、ようやく私も安心し、胸が熱くなり涙がこみ上げてきました。
その時の私は、今までの様々な出来事に思いを馳せる事もなく、子供が二人とも無事産まれたこと…。それが只々うれしくて、熱い涙が頬を伝いました。
S病院の先生の、産まれた時の喜びは十倍になるという言葉…。その言葉が持つ意味を、私はその時初めて実感しました。

しかしその思いに浸る暇もなく、未熟児で産まれた二人は、一分一秒を争うかのごとく、出生直後の処置の為保育器に入れられバタバタと運び出されました。
私は抱くことも許されず、数秒間顔を見ることしかできませんでした。
子供が手術室から運び出された途端、私の体は激痛に襲われました。
帝王切開の場合、子供への影響を考え麻酔は最小限におさえます。その為、結構痛みはあるという説明だったのですが、不思議なもので緊張感からか、子供をお腹から出すまでは、ほとんど痛みを感じませんでした。
その痛みが急に起こったのです。

先生は、全ての処置を終えるとしばらく私の手を握り、

「今日まで長かったわね。」

と言ってくれました。私は涙を流しながら、

「ありがとうございました。」

と言うのがやっとでした。
本当に感謝の気持ちを伝えたい時というのは、言葉にしたくてもできないものなのかもしれません。

私達の闘いは、先生と初めて出会った時から始まりました。
先生から悲しい現実を告げられる度、私は先生の前で泣きました。
そんな私を、先生は決して甘やかしはしませんでしたが、いつも支えてくれました。だから私達は、いつも現実から逃げることなく、正面を見据えて生きてこられたのだと思います。
入院中は毎日病室へ顔を出し、どんな不安や疑問をぶつけても、いつも真剣に受けとめ、分かりやすい言葉で教えてくれた事。S病院への紹介状には、枠からはみ出すほどぎっしり書かれていたこと…。今でもよく覚えています。いつでも先生がいてくれる─いつもそう思えたからこそ、最後まで頑張れたのだと思います。

私は、この気持ちを伝えたいのに言葉が見つからず、ただ涙を流しながら、先生の手を握り締めていました。
先生の話によると、子宮内膜症の癒着がひどく、できるだけはがそうとしたけれど、全部は無理だったそうです。
そしてやはりその影響などにより、次の妊娠を望むのであれば、体外受精でないと無理だとはっきり言われました。
一方、主人は手術の間中、不安と緊張で胸も張り裂けんばかりだったようです。

術後の先生の、母子共に無事という説明を聞いてようやく安心したのか、その場にうずくまり大きな声で泣いたそうです。
主人にとっても長く苦しい闘いだったことでしょう。

第14話 若葉のころ

早いもので、二人が産まれて四度目の夏を迎えました。その間に、さらに男の子をもう一人、自然妊娠で奇跡的に授かり、私達は三人の子供の親となりました。
今年、上の双子は幼稚園へ入園し、毎日元気に通っています。そして、私は下の男の子を自転車に乗せ、よく公園へ出かけます。
若葉が芽吹く公園で、友達と元気に遊ぶわが子を微笑ましく眺めている中、私は時折子供のいなかった時の事を思い出します。

おもちゃもオムツもない、整然と片付けられた部屋の中で、子供の笑い声も泣き声も聞こえない。
子供がじゃれてくることもなく、ただ二人この空間の中にいる私達の姿…。

そんな風に考えてみると、日常の忙しさの中忘れかけていた大切なことを思い出すのです。

それは、子育て中のどんな悩みより、子供ができない苦しみの方がはるかに辛いという事。
私たちにも苦しみ涙を流した時代があったという事。
そして、子供が無事に産まれるという事は、どんなにありがたく、幸せなことか―これだけは決して忘れてはならないと思っています。

最後にもう一つ。私が子育てを通して、気がついたことがあります。

それは、子供は決して厄介な動物ではなく、私たち親に無限のエネルギーを与え、人の心を和ませる力を持つ存在だということ。
しかしそれは、子供たちを授かり産まれるまで、様々な壁を乗り越えてきたからこそ、分かったことかもしれませんが…。

第15章 メッセージ

長女のあなたへ

とても小さく産まれたあなたは、なかなかミルクを飲んでくれなくて、『この子は無事育ってくれるだろうか。』と、とても心配しました。
けれど、次第によく飲みよく食べるようになったあなたは、ぽっちゃりした元気な女の子になってくれました。
あなたの笑顔は本当に素晴らしくて、周囲の人達を幸せにしてくれます。
私自身、疲れている時やあなたの弟が赤ちゃん返りをした時にも、いつもと変わらないその笑顔でどれだけ救われたか分かりません。
どんな時でも笑顔を忘れないということがどんなに大変で難しいことか…。きっとあなたには、どんな苦境にも負けない強さがあるのだと思います。
そんなあなたの目に見えない努力や葛藤は、きっと大きな幸せとなって返ってきます。
ゆっくりマイペースでどんな時も笑顔を忘れない…。それがあなたの魅力の一つです。その事を忘れないで下さい。

長男の君へ

あなたは明るくて人懐っこくて、人を楽しませる天才ですね。そして、とても優しい子です。
あなたのその思いやりには、本当に助けられてきました。なかなか人には理解されないかもしれませんが、いつまでもその優しさを持っていてください。
ただ、少し人の事を気にしすぎる所があるように思います。あまり、人の評価や常識にとらわれ過ぎず、自分の思う道を進んでください。
どの道を選ぶにしても、とても器用なあなたのことですから、何でも無難にこなせると思います。
だからこそ、「もっと上へ」と努力し続けることを忘れないでください。何でも、『道を究める』ということは、そんなに簡単ではないはずです。
何でもできる人より、これだけは誰にも負けないというものを持っている人に、あなたにはなって欲しいのです。

二男の君へ

「自然の妊娠は無理だ。」と言われていたのに、あなたは産まれてきたのです。
きっとあなたには、産まれてこなければならなかった、何か理由があるのではないでしょうか。
あなたのものすごい食欲、どんな所でも物怖じしないでマイペースで通すたくましさ…。そんな様子を見ていると、あなたにはきっとこれからしなければならない大きな役割がある、そんな気がします。

子宮外妊娠後、自然の妊娠は無理だと言われ、体外受精四回目でやっとお姉ちゃんやお兄ちゃんを授かり、これ以上子供を望むのは贅沢だと諦めていました。
けれど、お姉ちゃん・お兄ちゃんの首がすわりお座りができるようになると、ほぼ同時に二人が成長していくのが寂しくて、「もっと長く赤ちゃんのままでいてくれたらいいのに。」と思いました。
そんな時にあなたを妊娠したのです。それも体外受精をせずに!

あなたを妊娠して検査薬で反応が出た時、先生は医学的に有り得ないと言っていました。
もし妊娠していたとしても、それは残念ながら子宮外妊娠だろうと。
ところが、赤ちゃんの袋が見つかり、一週間後にはとても小さな点のようなあなたが、袋の中にちゃんといたのです。
その時、先生と私達がどんなに驚き喜んだことか!

確かに、双子の下に年子でいろいろな心配はありました。
けれど、私達は本当にうれしかったのです。あなたには迷惑かもしれないけど、子宮外妊娠の時の子はあなたではないだろうか。
もう一度私たちの元へ戻ってきてくれたのではないか…。そんな風に思えて仕方がないのです。
だって、あなたの大好きなクマのクッション。あれは子宮外妊娠の手術後、亡くなった子の事を想いながら私が一針一針縫ったものです。私は、あのクッションに何度顔をうずめ、声を殺して泣いたことでしょう。

あなたの妊娠中、大きいお腹での双子の子育ては、本当に大変でした。
でもあなたは、何事もなく元気に産まれてくれました。そんなあなたは、私達にとって神様からの最高のプレゼントです。
あなた自身、これから悩み苦しむこともあるでしょう。けれどあなたには、運の強さとどんな所でもやっていけるたくましさがあります。あなたの天性の力を信じて、自分の道を切り開いてください。

2004年8月4日

この場を借りて、お世話になった田中温先生や桑野貴巳子先生。
双子と年子の子育てを温かく見守り、応援してくれている周囲の人達。
そして、どんな厳しい状況でも負けず無事に産まれ、元気でたくましく育ってくれている三人の子供達へ、心から感謝の気持ちを送りたいと思います。

早川 みどり

最終章 あとがき

今、私達夫婦はやっと授かった三人の子供達に囲まれて生活できる様になりました。
以前の妻は、常に、世間の無神経な言葉に過敏に反応していました。
それでも普段は気丈に振舞い、私と二人だけになるといつも涙を流していました。本当に辛かったと思います。

「あなた達は子供がいないから親の気持ちはわからない。」

という言葉は、夫である私をも苦しめました。
世の中にはきっと、世間の無責任な一言で私達と同じ様な思いをしている方々がたくさんいると思います。
しかし、周囲が気を使わない等と世間を責めてばかりで、後ばかりを見ていても何も変わらないのです。
少しでも可能性があるのであれば、諦めないで前に向かって突き進んでいく事の方が大事だと私達は気が付きました。

「奇跡は必ず起こる!」

なんて断言は、勿論できませんが、万が一でもその「奇跡」と呼べるに等しいものが、もしかしたらあるかもしれません。
諦めたら、その万が一すらもなくなってしまうのです。
今、私達の子供は、親である私達の都合で生まれてきました。

最近思うのですが、妊娠は親の満足の為にあるのではなく、育児をする為にあるのではないでしょうか。
望んで生んだからには当然責任を持って育てる義務があります。
私達は多くを望んではいません。物事の善し悪しの判断ができ、のびのびと健康に育っていって幸せになる事。ただそれだけを常日頃から心掛けて育てています。

いつの日かきっと、子供たちがこの本を読む時がくるでしょう。その時、子供達がどう思うかはわかりません。
しかし、世間の様々な意見等、気にせず堂々と胸を張って生きていってくれると信じています。

私達夫婦における、子育ての原点。
それは「不妊」です。
これだけは間違いありません。
この気持ちを忘れる事なく、これからも妻と共に、一生懸命子供を育てていこうと思います。

最後に、この拙い私達の体験談が、不妊で悩んでいる方々に対し、少しでも気持ちの支えになれれば幸いだと思います。

早川 英之



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