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雲の向こうに・・・ー 2024.10.01 ー

第1話 出版までの軌跡

「自然の妊娠は無理でしょう」
この言葉は、私を絶望の谷底へ突き落としました。

結婚5年目、待ちに待った待望の妊娠は子宮外妊娠。当時通院していた病院で、卵管摘出手術を受けました。小さな小さなわが子は妊娠6週目でした。
私はお腹の子を亡くしたという事実を受け入れることができず、悲しみに打ちひしがれている最中、医師からその言葉を告げられました。
医師は更にこう付け加えました。
「もし自然妊娠が無理でも、体外受精という方法があります」
その時の私にとって、その言葉は何の慰めにもなりませんでした。それは、私が不妊症だという事実を突きつけられたに過ぎなかったからです。
気持ちが落ち着きを取り戻した後、私は体外受精を開始しました。
毎回、「今度こそは」と治療に臨み、過度に期待する。そして、生理によって治療が全て無駄になったという残酷な現実がやってくる。絶望と言い知れぬ空虚、そして悲しみだけが心に残る・・・。
そんな思いをずっと繰り返してきました。

今、私は思います。
不妊治療は、本当に辛くて苦しいものでした。
大きな肉体的苦痛に加え金銭的負担。その上、人と会う度に放たれる「子供ができない夫婦」へのきつい挨拶等の精神的負担。
当然彼らに悪気はなく、その言葉がどれだけ私を傷つけたかも分かってはいません。
私は、ただ必死に作り笑いをするだけで精一杯でした。
その時怒ることができたら、泣くことができたら、どんなに楽になれたことか・・。しかし、私にはどうしてもできませんでした。二人になると、私は主人に何度も泣きながら訴えました。
「何故私達の所へは赤ちゃんが来てくれないの!」

多くの葛藤や絶望と戦いながら不妊治療を繰り返した結果、現在は子供と一緒に生活することができるようになりました。私達が語らない限り、子供自身も体外受精でできた子供だと認識することなく生きていくことでしょう。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。体外受精でできた事を教えない事が、本当に子供のためになるのだろうか。

私達の頭に大きな疑問がよぎりました。
私達夫婦は、この「体外受精をして授かったという事実」を子供達に伝えるかどうか、長い間悩み、何度も話し合いました。その結果、きちんと事実を伝えようという結論に達したのです。
知らないですむのなら、その方が幸せかもしれない。もしかしたら傷つき、心に深く傷が残るということがないとは言い切れません。しかし、不妊治療は決して誰に対しても恥じることではありません。私達が選んだ体外受精という選択と決断は正しかった。今もそう強く信じています。
私達が出した結論は、子供にとってあまりにも重くあまりにも大きな壁かもしれません。しかし、その壁を乗り越え、堂々と生きて欲しいと強く願いました。
「こんなにあなた達が欲しかったんだよ。あなた達の命をこんなに愛おしく思っているんだよ。だから、授かった命を大事にして欲しい。自分の命も人の命も・・・。そして、あなた達だけには、お腹の中で先に亡くなってしまった兄弟がいたという事実を覚えておいて欲しい。」
その思いをいつか子供達に伝えたいと心から思いました。

約2年の歳月をかけて書き続けた日記が礎となり、幸運にも出版される事が決定しました。
出版に到るまで、辛い過去を思い出し、泣きながらペンを走らせたこともありました。内容に対する意見の食い違いから、主人と激しい口論となり、それを破り捨ててしまおうと思ったことも・・。
そんな葛藤を繰り返し、身を削る思いで書き綴りました。そうして、私の著書「いつか伝える日がきたら・・・」が生まれたのです。

私は一人の弱い人間です。医学的知識もありませんし、心理学の勉強をした訳でもありません。私は、不妊などで悩んでいる方々の心に寄り添っていたい・・。ただそれだけなのです。
今の私にできる事は、不妊治療体験で、私が感じた事、得た事、そして今感じる事、又、本書で書けなかった事等を素直に語っていく事だと思います。この手記が、少しでも皆様の気持ちに添うことができたら幸いです。
これからの連載期間、未熟者ではありますが、皆様宜しくお願い申し上げます。

第2話 私達は子供を欲しかった

私達夫婦は、学生の頃から付き合いを始め、卒業後二年の遠距離恋愛の末結婚に至りました。
結婚直後から、私達は子供を欲しいと思いました。それまでの付き合いが長かったせいか、夫婦二人だけの生活にそれほど拘りはありませんでした。
それよりも、子供のいる生活に憧れました。
子供連れの夫婦を街で見かけると、羨望の眼差しで眺めていました。

結婚当初の私達夫婦の会話の中で一番楽しかったテーマは、「子供ができたら・・」でした。そのテーマには夢が溢れ、夫婦で楽しく語り合ったものでした。当時の私達は、そのテーマは簡単に実現できるものと信じて疑うことはありませんでした。

主人は大変子供が好きです。
子供を見かけると、童心に戻り同レベルになって子供と戯れます。
そんな様子を見ていると、こちらまで温かい気持ちになり、私は微笑ましく眺めていたものです。

主人ほどではありませんが、私も元来子供と接することが好きでした。
子供の頃私は、幼い従妹達を毎日のように連れまわしたり保育園へ遊びに行ったり・・。とにかく幼い子供と接することが大好きでした。
学生時代は家庭教師のアルバイト、そして就職は塾の講師を選択し、公私共に一生子供に関わり続けていきたいと願っていました。

私達はそんな夫婦でしたが、結婚当初の、子供を早く作りたいという望みをなかなか叶えることができませんでした。
子供ができぬまま三年の月日が流れ、不安になった私は、近くの小さな産婦人科の戸を叩きました。
診察の結果、妊娠できない原因は特に見当たりませんでした。

妊娠できない原因が見あたらないということは、きっと近い将来妊娠できるはずだと楽天的に信じていました。それから数ヶ月が過ぎましたが、生理は相変わらずきっちり訪れました。

私は、それからも何度かその産婦人科へ通いました。しかし何度足を運んでも、妊娠できない原因は見当たりませんでした。

今思えば、もっと早い時期に大きな病院へ行くべきだったと思います。内診だけでなく、検査をすれば妊娠できない原因が早くに分かったのではないかと後悔しています。

しかし当時の私は、子どもができない原因が見当たらないと言われることで安心したかったのかもしれません。大きな病院で検査を受けた際、「あなたは子供ができない」と、もし言われでもしたら・・。
考えただけでも怖くて、大きい病院で受診するという行動を起こす勇気さえも、私は持ち合わせていませんでした。

結婚して五年が経った頃、一日も狂わなかった生理が初めて遅れました。基礎体温は上昇を続けており、私は期待の高まりを抑えることができませんでした。
しかし、結果は子宮外妊娠。
受精卵が着床した為の卵管摘出手術後の私は、今までよりもまして子供を欲しいと切望するようになりました。

手術で左の卵管を無くした私は、タイミング法を試みました。
医師に言われたことは全て守りました。
お腹の子供を亡くした悲しみを早く打ち消したい気持ちもあったのでしょうか、私の頭の中は治療のことでいっぱいになりました。
排卵日前に友人が遊びに来ても、
「今日は排卵日前だからもう帰って」と家から追い出したことも幾度となくありました。

酔っ払って帰ってきた主人を激しくなじったことも・・。

そのことに関して、主人が私を責めることはありませんでした。

その時の私には、そんな主人の思いやりに気づく心の余裕もありませんでした。

私には左の卵管がない。
今月を逃したらいつ右側の卵巣が排卵するか分からない。

医師の言葉を忠実に守っても、一日も狂わず訪れる生理。どんなに治療に励み、頭の中を治療の事でいっぱいにしても、容赦なく押し寄せてくる子供を亡くした悲しみ。そして、一生子供ができないかもしれないという大きな不安。

焦りと不安と悲しみで、私の心はどんどん追い詰められていきました。
あんなに子供達と関わることに喜びを感じていたはずなのに、子供と会うことにだんだんと苦痛を覚えるようになりました。
赤ちゃんの泣き声を聞けば心がざわめき、妊婦さんを見かけると、どうしようもない妬みが心の奥底から湧いてきました。
以前は、心温かく微笑ましく眺めていた「主人と子供の戯れている様子」さえも、なかなか子供ができない自分に苛立ちを覚える材料でしかなくなってしまったのです。
周囲の人から、
「あんなに子供を欲しがっているご主人の為にも、早く子供を作ってあげなさい」などと言われ、私はますます子供から遠ざかり、真っ直ぐな子供達の眼差しに、笑顔で応えることもできなくなりました。

子供を欲しいと願っていた私の胸中は様々な感情が入り乱れ、誰に対しても心を閉ざしていったのです。

第3話 「子供はまだ?」

周囲は、結婚すると当たり前のように子供を要求してきます。
私達夫婦の場合も例外ではありませんでした。
街で知人の年配の方に出会う度、行事で人が集まる度、「子供はまだ?」という言葉を投げかけられてきました。

結婚して3年ぐらいまでは、冗談混じりでその言葉をかわすことができました。
しかし月日が流れ、子供がなかなかできない事を真剣に悩むようになった時、冗談でかわすことに対し、虚しさと苦痛を覚えるようになっていました。
特に不妊治療中、その言葉は私の神経を逆なでするものでしかありませんでした。

飲み会の席で酔った年配の男性に、
「お前達は子供の作り方も知らないんだろう。俺が作り方を教えてやろうか?」と笑いながら言われた事も、幾度となくありました。

必死に笑顔で取り繕い、冗談でかわそうとしても、しつこくしつこく子供を作らない理由を聞かれました。その時は、本当にその場を逃げ出したくてたまりませんでした。正直、その人に対し、心の奥から憎しみさえ湧いてきました。

「子供を早く作りたいけどできないんです!」

何度その反論の言葉を言おうとしたか分かりません。しかし、どうしても言えませんでした。
笑顔の仮面をかぶり、「子供はまだいいですよ」などと言ってごまかし続けていました。

私は、不妊症である事や不妊治療の事をあれこれ語りたくはありませんでした。それに、「子供ができない」という事実を知られたら、私はいずれここにいられなくなるのでは・・。そんな不安も少なからず抱いていました。

私の心をこれ以上傷つけないで!
お願いだから、子供の事や不妊治療の事に触れないで!

私は心の中で乾いた叫びを繰り返し、他人の一言一句に過敏な反応を起こすようになっていました。
挙句、追い詰められた私は周囲に対し、いつしか心を閉ざさざるを得ない状況に陥っていました。

しかし、そんな気持ちとは裏腹に、自分の心情や不妊治療の事を誰かに分かって欲しい。そんな拮抗する思いもありました。

誰か私の話を聞いて!
薬の副作用で私の体はガタガタ。
毎回期待しては落胆の繰り返し・・。
いつまでこんな思いをしなくてはならないの?
私はもう疲れ果てた・・。
でも、体外受精をしなければ子供ができない・・。
体外受精をやめることは子供を諦めること。
そんな事は絶対に嫌だ。
子供が欲しい。私達の子供が・・。

私の心は、自分の気持ちを吐き出せる相手を捜し求めていました。

しかし、私の周囲に体外受精はもちろん、不妊治療を経験した人は誰一人いませんでした。
経験の無い人に私の気持ちを分かってもらえるはずもなく、私は一人もがき苦しんでいました。

当時、主人がどのような気持ちでいたのか私には分かりませんが、できる限り私のそばに寄り添ってくれていました。

会社の上司に事情を説明の上、仕事のやりくりをつけ、病院への送迎や付き添いなど、当たり前のように行ってくれました。

優しい言葉や労いの言葉は一つもありませんでしたが、今になって考えてみるとそれらの行動は主人なりの優しさと愛情の表れだったのでしょう。きっと辛さもあったと思います。しかし、そういった事を私に微塵も感じさせず、いつも通りの主人でいてくれました。

しかし、当時の私はそんな主人に感謝することもなく、むしろ、何の言葉もかけてくれないことに対し不満を感じていました。

誰も私の辛さを分かってくれない。
主人だって所詮は男。
女である私の気持ちなんて分かるはずがない。
不妊治療経験のない主人にこの苦しみが分かる訳もない。
だから労いの言葉の一つもかけてくれないんだ。

これが、私の正直な気持ちでした。

第4話 友人・知人のおめでた

「実はね、私妊娠したの」

この言葉は何の前触れもなく、いつも突然やってきます。
子宮外妊娠以降この言葉を聞くと、私の心は祝福の気持ちから羨ましい気持ちへと大きく傾きました。
その時心の中を大きく占めていたものは、「何故私は妊娠できないのだろう。早く妊娠したい」という強い思いでした。

祝福したい気持ちは確かにありました。しかし、羨望の感情ばかりが先行し、どうしても「おめでとう」の一言が言えませんでした。

友人の洋服が徐々にマタニティへと様変わりしていくにつれ、いつの間にか距離を感じ寂しさを覚え始めました。そして「羨ましい」気持ちがこみ上げ、更にその羨ましさはますますエスカレートして妬みへと変わっていきました。
友人がつわりで苦しんでいる姿を見ても、冷めた目で見る事しかできませんでした。

「つわりが辛い?
妊娠しているだけで、何かと言えば周りにちやほやされて。
悲劇のヒロインにでもなったつもり?
子供ができない苦しみの方が何百倍も絶対辛いのよ!
そんなあなたに子供ができない苦しみなんて、どうせ分からないでしょうね!」

そんな妬みを抱きながらも、友人の体を気遣う振りをする自分に嫌気が差すようになりました。
そして友人と会う事も億劫となり、私に気を使っている様子にさえ、煩わしさを覚えるようになりました。
その様な精神状態で、いい人の仮面をかぶることに疲れた私は、妊娠した友人へ連絡することを避け、必然的に疎遠になっていきました。

後日、その友人が出産した事を耳にしました。その途端、心の奥底に押し込めていた黒い感情が溢れ始めました。
人前ではその感情を無理やり押さえ込み、笑顔で明るく振舞っていました。しかし自宅に戻り主人と二人だけになると、私は泣きながら訴えました。
「何故私には子供ができないの!」
主人はただ黙っているだけでした。
もちろん、主人が答えられない事は重々承知していました。
しかし、あの時の私には、主人に感情をぶつける他なす術がなかったのです。

ひとしきり泣いた後、自分の心の弱さや汚さを痛感し、自己嫌悪に陥る・・。それが私の常でした。

その頃の私は、可愛らしいベビー服やグッズなどが視界に入らないよう、それらの店には近寄りませんでした。仕方なくデパートのベビー用フロアを通る時も少しうつむき加減で足早に通り過ぎていました。
その様な生活の中、「出産祝い」もあれこれ探すことはせず、商品券か金銭で済ます様にしていました。

それ以前の私は、「出産祝い」を選ぶために店へと足を運ぶことが何よりも楽しみでした。
無事出産したと聞けば、週末にはお祝いの品を選ぶため、いそいそとデパートへ出かけていました。
赤ちゃんの物はどれも可愛らしく、一つ一つ手に取り、「かわいい!」と連発しながら選んでいたものです。いつかわが子のために買える日を夢見ながら・・・。

不妊の苦悩を抱え周囲に心を閉ざしていた私にも、心から受け入れる事ができた友人が一人だけいました。
彼女は非常にさばさばした性格で、楽天的な人です。彼女と話していると、いつの間にか心の重みが軽くなる不思議な女性でした。
やがて彼女は妊娠しました。
彼女は、私が不妊で悩んでいる事を知っていましたが、同情の気持ちは微塵も感じられず、他の人に見受けられる妙な気遣いも全くありませんでした。
彼女はいつも私に対し、楽観的に軽く、何の根拠もなく、こう言ってくれていました。
「大丈夫、綾ちゃん。子供はできるよ。何かそう思うんだもん」
彼女の言葉は純粋で何の疑いも感じられませんでした。私の心に素直に響き、誰の言葉より励まされ勇気づけられました。

子宮外妊娠での卵管摘出手術後の入院中、彼女は大きなお腹を抱えてやってきました。
ドアの隙間からにゅっと顔を覗かせ、
「綾ちゃん大丈夫?」と声をかけてきました。
その後は彼女といつも通りの調子で話し、穏やかな時間を過ごしました。
彼女は何も言いませんでしたが、どんなに心配してくれているか、病床の乾いた私の心にも届きました。
妊婦なんか見たくもないと思っていたのですが、何故か彼女のお見舞いだけは本当に嬉しく感じました。

私の不妊治療中、彼女は出産を迎えました。
赤ちゃんを無事出産したという知らせを受け、私は我が事のようにうれしく、涙が溢れました。

人の幸せを妬むことしかできなかった私・・。
赤ちゃんの声を聞くと心が騒ぎ耳を塞ぎたくなるけれど、その友人の赤ちゃんの声だけは愛おしいと感じる事ができる。
無事産まれて良かったと心から祝福できる。

当時の私は、弱くて汚い心を持った自分を嫌い責め続けていました。
しかし、この時だけはちょっぴり、自分を愛おしく感じる事ができました。
「私にも優しい心のかけらが残っていたんだ・・・」
私にとって大きな驚きであり、何よりも嬉しかった事でした。

第5話 決断

体外受精を決断したのは、子宮外妊娠から一年が過ぎた頃―。検査結果で「体外受精以外、子供を作る手段はない」と告げられて間もなくのことでした。

周りが、私達の子供を心待ちにしている事は痛感していました。
その気持ちが私の上に重くのしかかり、子供がいないまま生涯を終える事への恐怖にしばしば襲われました。

自分は自分・・。
人と比べる事はやめよう。

何度自分に言い聞かせても、つい人と比べてしまい、「羨み・妬む」気持ちが湧き出てきました。

他の人は簡単に子供ができるのに、何故私には子供ができないのだろう?
神さまは本当に不公平だ!

当時、子宮外妊娠の悲しみに翻弄され、自暴自棄な気持ちもあったのかもしれません。
心の中で神を恨んでは、周囲を無理解だと責めていました。

確かに、体外受精をしなければ子供は無理だと言われた事はショックでした。
また、あれほど子供が欲しいと願っていた主人にとって、何て辛い検査結果なんだろうと思いました。

その検査結果を知ったセントマザー産婦人科医院からの帰り道、
『一生子供を抱かせてあげられないかもしれない』という罪悪感でいっぱいだった私は、「ごめんね…。」と言う以外何も言えませんでした。
主人はびっくりした様子で私の顔を見た後、押し殺したような声で「謝るな」と一言だけ言いました。

『私を気遣って他に何も言わないけれど、この人はきっと、子供ができないかもしれない事が辛いんだ。私と結婚したばかりにこんな目に合わせてしまった。』

私はただ黙ってうつむいているだけでした。

主人がこの事を理由に離婚を切り出す事は決してないとは思っていました。しかし、仮にそういう事態に陥った場合、これも受け入れざるを得ない悲しい現実なんだと憤りも感じていました。

先日、主人と当時の事を久しぶりに語り合いました。
私は、「自然の妊娠が無理だと知った時、ショックだった?」と尋ねてみました。
主人は、
「それよりも、その事でお前が謝ってきた事の方がショックだった」と言いました。

主人は、子供は欲しかったけれど、できないなら夫婦二人で生きていくのも悪くないなと考えていたそうです。
そして、
「お前との間に子供ができないからと言って、お前以外の人と子孫を残したいとは思わなかった。俺はお前と俺の遺伝子を持つ子供がいいんだ」と言いました。

私は、嬉しくて思わず涙がこぼれました。
そしてこの言葉は今、私の胸に深く刻まれています。

当時私は、
「一日でも早く体外受精をしたい!」とその強い気持ちを主人にぶつけました。すると何の反論もなく主人は賛成してくれました。

正直、この現実から逃げ出したいという気持ちもありました。しかし、逃げ出したら一生子供に会う事はできない。今は現実に立ち向かっていくしかないと決意を固めていました。

今考えると、現実と対峙して逃げも言い訳もせず完璧に立ち向かったのは、今までの人生においてこの試練が初めてだったと思います。

主人と私は三回までの体外受精を一つの区切りにしようと話し合い、もしそれで駄目な場合、二人だけの人生を選択するという結論に達しました。

その時は内心、一度の体外受精でできるのではないかという期待も少なからず抱いていました。

様々な葛藤の末、過去を振り返って考えてみると、あの時不妊の原因がはっきり分かったからこそ早く覚悟を決め、体外受精を受ける決断ができたのではないかと思います。

もし、いつまでも不妊症だという事実と向き合う事がなかったら、私は体外受精について知識を得る努力もせず、当然治療を受ける覚悟さえもできなかったかもしれません。

第6話 体外受精

子宮外妊娠は、私に大きな決断をさせました。
病院での手術後わが子の受けた扱いは、単なる臓器摘出手術であったかのようでした。

私はガンや腫瘍を摘出したのではない!
愛おしいわが子の命を摘み取ったのだ!

術後間もなく、癒着を防ぐ為歩くように促されました。しかしそこは赤ちゃんの泣き声や妊婦さんが行き交う産婦人科病棟・・・。
退院二日前になってようやく、部屋から足を踏み出しました。
部屋に戻るとドッと疲れと悲しみが溢れ出し、ベッドの上で声を殺して泣きました。

そんな自分の感情と周囲の対応とのギャップはあまりにも大きく、ずっと悲しみの感情を表に出すこともできず苦しみを抱えていました。

退院した翌日、妊娠前と何ら変わりない日常をスタートさせた心の中には、身を切り裂かんばかりの悲しみとぽっかり穴が空いてしまったような寂しさがありました。

セントマザー産婦人科医院で検査結果を告げられて間もなく、別室に移された主人と私は、看護師の方から体外受精についての資料が渡され、詳しい治療内容を説明されました。
その資料の中には体外受精の他に人工授精などの説明も書かれていました。しかし、一つしか残っていない卵管も詰まっていた為、受けた説明は体外受精のみでした。

厳しい現実を否応なく目の当たりにし、私はその現実を受け入れる他ありませんでした。
その結果、心の傷はさらに深まり、女性としてのプライドは波に洗われていく砂城のように少しずつ崩れ落ちていきました。
いつの間にか、元来持っていたはずの明るさや快活さは消え、自分本来の姿を完全に見失ってしまいました。
真っ暗なトンネルの中に一人取り残され、手探りで進む私の前方はもちろん、後方にも一筋の光さえも見出す事ができませんでした。
ふと心に過ぎる「明るい明日なんて来るのだろうか」という不安な気持ちを必死で拭い、何とか気持ちを奮い立たせては治療へ向かいました。

体外受精の回数を重ねる度、薬の飲み方や受精卵を戻した後の体勢、戻し後の生活に至るまで細心の注意を払うようになりました。
今思えば、あれだけ治療に没頭したのは、「子供が欲しい」という気持ちだけでなく、心に空いてしまった大きな穴を埋めようとしていた気持ちも少なからずあった事は否めません。
狂おしいほどの悲しみや寂しさがこみ上げるたび、「子供が生まれさえすればきっと心は癒される。悲しみを忘れる事ができる」と必死で自分に言い聞かせ、治療に向かっていました。

しかし、どんなに工夫し努力しても良い結果は出ませんでした。

「子供が欲しい」というささやかな夢―。
誰にでも簡単に手が届くものだと思っていたその夢は、私達にとって、はるか遠いものなのだとその時痛感しました。

当時、多忙な主人を一人残し実家に帰省した事がありました。
実家で親戚の小母に会い、
「子供がいない人はいいわねー。一人で気楽に帰省できて。全く羨ましいわー」と言われました。
小母を腹立たしく思いましたが、言い返す気力も奪われ、笑顔の仮面をつけるのが精一杯でした。
そして一人になった時、悔し涙を流していました。

やはり不妊症という現実からは、いつどこにいても逃れる事はできない。私の心の中にはいつもどんよりと暗雲がかかったままでした。
しかし、歯を食いしばって前を向き、「今月こそは」と自分に言い聞かせていました。

約束だった三回目の体外受精も生理の始まりで幕を閉じました。
ショックから立ち直れず夢をどうしても諦める事ができない私は、主人とのその約束を受け入れる事ができず、もう一度だけと懇願しました。
「最後に気の済むようにさせてやろう」という主人の計らいで、私の訴えは受け入れられました。

大きな期待と落胆に疲れ、全く期待していない主人とは対照的に、「主人の了解を得られた」と私の心には希望が蘇りました。

もう一度体外受精ができる!
もう一度子供を持つ夢が見られる!
今度こそは妊娠できるかもしれない!

期待に胸を膨らませる一方、そろそろ夫婦二人の人生を覚悟しなければいけないと、もう一人の自分が心の中でつぶやいていました。

第7話 最後の戦い

体外受精四回目。「これが最後…」と、私は全精力を傾注しました。
この最後の戦いは、診察から治療に至るまで、全てを院長先生に委ねる事となりました。

診察や治療の際かけられた先生の言葉には、「大丈夫。一緒に頑張ろう」という温かい励ましのメッセージがいつも感じられました。
日々、胸の中で先生の言葉を呪文のようにつぶやき「負けない!」と治療に励みました。

最後となる今回のチャレンジは、生活の細部に至るまで、今までになく最上の注意を払いました。たとえ、今回妊娠できなくても後悔の念が残らないように。
「私達はやる事はやった。」と前を向いて歩き出すため、治療過程の一つ一つに納得しながら体外受精を進めていきました。

治療を黙々と続ける一方、子供のいない人生の模索も始め、私自身を静かに見つめ直していました。

「私は本当に子供が欲しいのだろうか。
周りから言われるから欲しいのか。
本当に子供が欲しいのなら、血のつながりがない子供でもいいのではないか。」

最後の体外受精への過程は、自問自答の繰り返しでした。

丁度その頃、里子制度の特集記事が新聞紙面に掲載されていました。
その関連記事を読みあさり、少しずつ里子制度について理解を深めていくと、親の身勝手な都合で離別する子供達の急激な増加に反し、親代わりとなる里親の不足という深刻な実態を知りました。

また一方で、子供ができないと悩み苦しんでいる人々の増加・・。

神さまが本当に子供を欲しいと願う人に子供を授けていたなら、こんな悲しい事態にはならなかったのにと憤りを覚え、やりきれない思いがこみ上げました。

治療は最終段階に入り、受精卵を戻した際、「次の戻しはお腹に穴を開けないと無理でしょう」と告げられました。
私は心の中で、
「もう次はないんだ…。」と胸の中に広がる虚しさを感じました。

戻し後、「あと何日かで、大きな期待から絶望へと打ちのめされる日が来るかもしれない」事への恐怖に怯えました。
子供を持つ夢を失った時を想像する事はあまりにも辛く、耐え難い事でした。

その時の私の中の思いは、
「やっぱり私は子供が欲しい。
愛情を注ぎ抱きしめる子供が欲しい。
子供を慈しみ育てたい。」
ただ純粋にそれだけでした。

数日後、長年夢見てきた、新たな小さな命が私のお腹の中に宿った事が判明しました。

今でも子供が欲しいという気持ちは、たとえ子供を授かる事ができなかったとしても変わらなかっただろうと思います。

ようやく妊娠反応が現れた事を涙ながらに喜んだのも束の間、次の第二ラウンドは「多胎の妊娠と出産はハイリスクである。」という厳しい現実でした。そしてその事を否応なく痛感する事となりました。

妊娠中の生活は、かつて憧れ夢見ていたマタニティライフとは全くかけ離れたものでした。
妊娠初期は、常に出血の有無に過敏に反応して流産の恐怖に怯え、安定期に入ってからもお腹の張りがある度、陣痛ではないかという不安に駆られました。

切迫早産による入院生活は本当に辛い日々でした。しかし、子宮外妊娠の時の入院とは全くかけ離れた感覚でした。

子宮外妊娠による手術後の入院生活は、毎日が地獄で、
『子供を摘み取った今、麻酔の副作用による吐き気や創口の痛みを、何の為に我慢しなければならないのか』と、虚しさと絶望感に涙が溢れてばかりでした。
人から「がんばれ」と励まされても、ただ虚しく、『何のためにがんばればいいのだろうか』と、悲しみと憤りがこみ上げるばかりでした。

しかし、切迫早産による今回の入院は、子供を無事に産むため・・。
どんな苦痛も耐える覚悟は人並みならぬものがあったと思います。

安静を強いられた二ヶ月にも及ぶ寝たきりの入院生活を私は必死で耐えました。しかし、「もしまた駄目だったら・・」という不安と恐怖感はいつも、私の心の奥底に重く圧し掛かったままでした。

そして都合三ヶ月の入院生活の末、五月十二日。帝王切開手術により私は双子を出産する事ができました。
今思えば、とても小さな二人のわが子の顔を初めて見た時。その時こそが私の不妊治療にようやく終止符が打たれた瞬間だったのだと思います。

第8話 双子

子供を持つという大いなる夢は、「双子の妊娠」という想像だにしていなかった現実となりました。
自然の妊娠を望めない私にとって、この事は本当に嬉しい事でしたが、出産・育児についての戸惑いと不安は正直隠せませんでした。しかし、やっと授かったからには、「大変だと思うけれど精一杯やらなければ」と心に決めました。

帝王切開の手術直後、二人の子供は未熟児の為手術室からバタバタと運び出され、保育器へ入れられました。
私は術後動けるようになるとすぐ、お腹の創の痛みを耐えながら保育器まで必死に歩いていきました。
看護師さんには、「保育器まで行くのは歩行を少しずつ慣らしてから」と言われていましたが、やっと出会えたわが子に会いたい気持ちを抑える事ができませんでした。

保育器の中の子供達はとても小さく、ほとんど骨と皮だけで、触れただけで壊れてしまいそうなくらい繊細で弱々しく見えました。おっぱいを吸う力もなく、ほんの少しミルクを飲んだら寝てしまう状態のため、授乳は昼夜を問わず一時間半毎に行わなければなりませんでした。
「点滴を打っていれば生きてはいけるけれど、ミルクをちゃんと飲まないと大きくなれない」と言われ、体力不足ですぐ寝てしまう子供達を無理やり起こしながら授乳していました。
周りの子供達の元気な泣き声、可愛らしく太っている様子等、とても羨ましく感じました。それに対峙して、泣く元気もないわが子の貧弱さが心配でたまりませんでした。
二人のとても小さな手の甲に点滴がつけられた姿はとても痛々しく、可哀想で仕方ありませんでした。もし、もっと大きくなるまでお腹の中で育てられたら、こんな痛い思いをさせずにすんだのにと、二人の姿を見るたび胸が痛みました。

子供は2300グラムに達しないと退院できない旨を先生から伝えられていました。一緒にいたいけれど、私は産後の回復により一足先に退院する事になりました。

私自身の長かった入院生活は終わりましたが、退院の翌日から、自宅で搾乳した凍結乳を毎日病院へと運び、授乳をしては帰る毎日となりました。

当時、長期に渡る入院生活と術後という事で極端に体力が落ちていました。常に疲労が溜まった状態で電車に乗り毎日通院する事は容易な事ではありませんでした。
しかし、今思い返せば、「子供に会いたい」という強い思いが私の体を自然と病院へと突き動かしていたように思います。

出生から一ヶ月に渡る入院生活の後、子供達はやっと自宅へ帰る日を迎える事ができました。
退院時の二人の体重はようやく2300グラムを超えた程しかなく、退院時に着せようと事前に用意していた市販の一番小さなベビー服もオムツもブカブカの状態でした。その様子が余計に弱々しく見え、今後の二人の成長について不安な思いが心を横切りました。病院から自宅へ帰った頃には授乳時間となり、一息入れる間もなく我が家での育児がスタートし、また新たな戦いが始まった事を痛感した一日となりました。

我が家での育児が始まるとすぐ、「この二人の小さなわが子を大きく成長させなければならない」という気持ちで頭の中はいっぱいでした。
毎日が不安だらけで、子供達が寝入ってからも、子供達がちゃんと息をしているのか心配になり、呼吸を確認してやっと安堵するという日々でした。
育児雑誌や育児マニュアル本を開く心の余裕もなく、育児の予備知識も殆どない中、その時その時の子供の様子や泣き声等、それらから発せられる情報を全身全霊で受け止めようと必死でした。

退院後数ヶ月経ち、体重の増加とともに飲む量も少しずつ増え、授乳の間隔も少しずつ空けられるようになりました。
若干気が抜けるようにはなったものの、昼間一人が起きているともう一人が寝て、夜一人が寝るともう一人が起きているという状態が何ヶ月も続きました。
私は極度の睡眠不足の為、自分でも起きているのか夢を見ているのか分からない・・。そのような状況でした。
横になって休んだり、座って食事したりする時間もなかなか取れず、私の疲労は常に限界に達していました。
最初の頃は多少なりとも出ていた母乳も、疲労と睡眠不足で殆ど出なくなりました。

そのような過酷な状況の下、「大変だ」とか「つらい」とか考える余裕はありませんでした。
今振り返ると、当時心や体に疲労を感じた時無意識に私を支えたもの・・。
それは、「子供がなかなかできなくて悩み苦しんでいた頃」や「亡くなった子供を想い涙した日々」だったと思います。どんなに寝不足でもどんなに疲労が溜まっても、それらは私をしっかり支えてくれていたのだと確信しています。
夜中、夜泣きする子供をなだめながら、「子供がこのままできなかったら・・」と不安に駆られ眠れなかった夜をよく思い出しました。

座る事もできない二人の子供のお風呂、山のような洗濯物や離乳食作り、重い双子用ベビーカーを押しての外出・買い物、一時たりとも目を離せない二人の安全確保・・。

主人はできる限り手伝ってくれましたが、今思い返せば本当に大変でした。しかし、疲労でぼんやりとした頭の中で苦しく悲しかった日々の事を思い返すと、不思議と体から新たなエネルギーが湧き上がっていたように思います。

第9話 奇跡

無我夢中での育児の中、一月一月があっという間に過ぎ去っていきました。
育児の合間にふと、先生方に「自然の妊娠は無理だ」と告げられた事に寂しさが過ぎる事がありました。

贅沢だという事は十分承知していますが、女として次の妊娠を諦めきれない自分が心の片隅に残っていました。
この間子供を産んだばかりなのに、「できれば、もう一度だけでいいから妊娠・出産の喜びを味わいたい」という気持ちが自然とこみ上げてきました。
まだ子供を欲しいと願ってしまう事がとても図々しい事のような気がして、慌ててその気持ちを打ち消し、「私は二人も子供に恵まれた。これ以上望んではいけない」と自分に言い聞かせました。
又、そんな自分は、何て欲深い人間だろうと思いました。

その様な気持ちの最中、生理がしばらく遅れている事に気づきました。
まさかと思い妊娠検査薬を購入し、妊娠反応を調べてみました。
あれだけ医者から自然の妊娠は無理だと言われていたにも関わらず、なんと結果は陽性でした。
正直、喜んでいいのかどうなのか分からず、私達は戸惑い、すぐに病院へ向かいました。
病院への道中、私の心のどこかに隠れ、ずっとくすぶり続けていた小さな希望は心を明るく灯しました。

しかし診察時先生からの返答は、
「そんな事あるはずがない。もし妊娠していたとしても、子宮外妊娠に間違いないだろう」というものでした。
念のため、子宮の中をエコーで確認しても子供は確認できず、「出血が始まったらすぐ病院へ来るように」とだけ告げられ、帰路へつきました。

奇跡を信じ、胸を膨らませたのも束の間、主人と私は大きな衝撃を受け、激しく動揺しました。
「やはり、奇跡なんて誰にでも起きるわけない」と自分に言い聞かせながらも、何故二度もこんな悲しい思いをしなければならないのかと、悲しみを超え憤りがこみ上げてきました。
その気持ちを何とか押し殺し、気落ちしている自分を励ましながら日々の生活をどうにかこなしていました。
家事等をしている間は気が紛れ、現実を忘れる事ができるのですが、ふと時間が空いた時、大きな悲しみがこみ上げてきました。小さな二人を残して、数日のうちに手術に向かわなければならない辛さばかりが心を占め、一人になるとポロポロ涙がこぼれました。

一日一日がとてつもなく長く思え、出血や腹痛の有無を常に気にして、気の休まる時はありませんでした。
疲れているはずなのに夜もなかなか眠る事ができず、「手術が上手くいかなかったら、この子達はどうなるのだろう」と死の恐怖を感じる事もありました。
その都度お腹の子供の命が危ないというのに己の身を案じている自分に気づき、罪悪感を覚えました。

長い一週間が過ぎました。
何事もなく一週間が過ぎた事で消えかけていた小さな希望が再び灯りましたが、期待して裏切られた時の事を考えると怖くて、主人と私は無言のまま病院へと向かいました。

診察を待つ間もできるだけ何も考えないよう、テレビをただ眺めているだけでした。

長い待ち時間の末、とうとう診察の順番がやってきました。固唾を呑んで先生からの言葉を待ちました。

診察の結果、子供の芽がちゃんと子宮の中で育っている様子が確認でき、間違いなく妊娠しているという事が判明しました。
先生も首をひねって、「考えられない。信じられない。」と終始不思議がっていました。

自然の妊娠は無理だと言われていたのに、妊娠する事ができたという事。
これは、大きな感動と喜び、そして不妊症である私にとって、大きな希望を与えてくれました。
かつて子宮外妊娠をした直後、先生から「医学的に妊娠は不可能という人でも、自然に妊娠する事がある」という話を聞かされていた事を思い出しました。
当時、まさかその奇跡が自分にも起こり得る事だとは思っていませんでした。

今当時を振り返り感じる事は、信じる心は奇跡を生み出す力を持っているかもしれないという事です。
たとえ医学的見地から妊娠は無理だと言われたとしても、可能性がゼロでない限り、又、信じる心が僅かでも残っている限り、奇跡は誰にでも起こり得る可能性を秘めているのではないかと、私は自分の経験からそう信じる様になりました。

第10話 試練

双子の出産後、すぐにもう一人子供ができる。私達は困惑しました。
しかし、せっかく授かった命。生活の大変さは承知の上で精一杯育てていかなければと決意しました。
私達夫婦は心から喜び、無事に生まれてくることを切に願いました。

卵管摘出手術・帝王切開という二度の開腹手術を経験している私は、微々たる可能性ながら、子宮破裂の危険性を主治医から示唆され、今回も帝王切開する事になりました。

手術前日、主人と私は執刀医から手術についての説明を受けました。

開口一番、「今回で三度目の開腹手術は、前回よりもリスクが高くなる事は理解しておいて欲しい」と告げられました。その後の説明では、胃や腸が切開部分に癒着していた場合、それらを傷つけてしまう可能性もあるという事。その為、万が一に備え、外科医も待機しているという説明でした。

私の大きな不安と恐怖をよそに、手術は何事もなく無事終了し、元気な男の子を出産する事ができました。

出産後まもなく、私に大きな試練が待ち受けていました。
退院直後の検診で、子宮内に異物が発見されました。急遽入院となり、子宮内容除去手術を受ける事になりましたが、異物は全て取りきれなかった様です。「悪性の腫瘍」の疑いも拭えない為、急遽MRI検査も受けました。結果、「異物は何らかの組織が壊死した物」と判明しました。
その後、卵巣浮腫の肥大化により、卵巣摘出手術も受けました。術中の「迅速診断」で悪性の可能性は否定されました。しかしその後の病理検査の結果、「現時点では、摘出した卵巣は良性とも悪性とも言えない。境界悪性の疑いもある。さらに詳しい検査が必要だ」と告げられました。
「癌」という文字が脳裏に浮かび、一人になる度不安と恐怖で涙を流していました。
ひとしきり涙を流した後は「死ぬわけにはいかない!絶対元気になるんだ!」と自分に強く言い聞かせていました。
検査結果が出るまでの一ヶ月間、癌への不安と恐怖に怯えながらその時を待ちました。結果は幸いにも「良性」と分かり、一ヶ月間の苦悩の日々から解放され、やっと安堵するに至りました。

又、それらの病気とは別に新たな問題が発生しました。
実家から、兄が脳内出血により危篤状態との連絡がありました。
開頭手術後は二十四時間付き添いが必要という事で、兄は独身の為、母と私が交代で付き添う事になりました。
三人の小さな子供を抱えての病人の看病は想像を絶する大変さでした。
睡眠を殆どとる事ができない状態で、一週間の睡眠時間は十時間にも満たない状態でした。
精神的にも肉体的にも限界に達し、気力のみで日々を過ごしていました。
幸いにも兄は奇跡的な速さで回復し、現在は後遺症もなく元気に過ごせるようになりました。

今思うと、当時は本当に大変でした。しかし、現在に至るまで、不妊治療していたあの頃ほど辛く追い詰められた時期はなかったと思います。子供ができずに悩んでいた時代に立ち返る事で、自分自身を奮い立たせ、冷静な自分を取り戻しつつ、未熟ながらも懸命に一喜一憂しながら一歩ずつ歩んできました。

不妊治療中、子供ができなくて、人を羨み妬みました。自分自身の心の弱さや汚さをまざまざと見つける度、罪悪感に苦しみました。人からの何気ない言葉に幾度も傷ついてきました。

当時から幾年もの年月が流れましたが、今でも鮮明に思い出され、切なさで心が痛みます。
当時の胸中を思う度当時の苦しみが蘇り、涙がこみ上げてきます。

そんな自分を顧みると、今更ながら不妊治療がどんなに辛く苦しいものだったか。そして私の人生の中でいかに大きな試練だったか、改めて痛感します。

第11話 消えぬ悲しみ

幾多の試練を乗り越え、私は本来の明るさと快活さを取り戻しました。
しかし心の中では依然として闇を抱え続けたままでした。

その事と直面するのは、決まって毎年二月四日 – 子宮外妊娠による卵管摘出手術を受けたその日でした。
普段は考えないようにしていても、その日だけは逃れる事ができません。心は乱れ苦しみ、この場にいるはずのないわが子を捜し求めては自然と涙がこみ上げ、あの手術の時から全く前に進んでいない自分を痛感します。
しかし、一生悲しみ苦しみ続けなければならないのかと沈む反面、亡くなった子供への思いは年月を経ても変わっていない事に安堵して救われる気持ちもありました。

ある時ふと、「あの子が生きていた証を何か残したい。今のわが子達に兄か姉がいたという事を知っておいて欲しい。」
それらの思いが堰を切ったように溢れ出し、亡くなった子供とその妹・弟達への心の内を書き綴り始めました。
毎日昼も夜も、手が空くと原稿用紙に向かい、一晩夢中で書き続け、気がつけば空が明るくなっていた事もありました。
それを書く事によって苦しみや悲しみから解放され、楽になれるのではないか、という期待があったのです。
しかし、ずっと心に閉ざしてきた過去を書く事は、思いのほか悲しみや苦しみと向かい合わなければならず、予想以上に辛い作業となりました。それでも溢れ出てくる思いは止める事ができませんでした。
書いた内容を涙を拭いながら読み返し、「私の気持ちはこんなんじゃない」と書き直す・・。そんな事を数え切れないほど繰り返しました。
当時は、将来その時の原稿が本として出版されるとは夢にも思っていませんでした。

私の思いの詰まった文章は、運良く出版されるに到りました。
涙が出るほど嬉しく、「これでやっと楽になれる」と思いました。
しかし、その後もなお、悲しみや苦しみから解放される事はありませんでした。

何年経っても、子供を亡くした悲しみや苦しみは変わらず、「あの子を抱きしめる事も成長を見ることもできない」という思いが強くなるばかりでした。
誰からも祝福されず、たった一人でこの世を去り、誰からも見送ってもらえなかったわが子・・・。

それに本当は、あの時 – あの子を失った時、私は声を上げて泣きたかった。
思いっきり泣かせて欲しかった。

子宮内ではないにしても、あの子は確かにお腹の中に着床し、六週間育っていたのです。
100パーセント産まれる事ができない命であっても、私からすれば愛おしいわが子に違いありません。

世間の反応はそんな思いとは裏腹に、悲しみを口に出す事も涙を流す事さえもはばかりました。
当時は、単に病気を手術しただけかのように振舞う人が多く、悲しみを表に出す事を避ける傾向がありました。
まして世間においては、子宮以外に受精卵が着床する子宮外妊娠では、『摘出物』。流産・死産のように子宮内の子供を亡くした場合は『小さな命』。
決して同じように認識してはもらえませんでした。一つの生命が消えた事に変わりはないのに・・・。
私は感情を無理矢理抑えこみ、不妊治療などに励む事で前向きに生きようとしましたが、あがけばあがくほど心の闇は更に深まるばかりでした。

数年後、私の出版本のホームページを立ち上げた事がきっかけとなり、ある女性と知り合う事ができました。そして、その方から死産・流産経験者のための会があり、その会は子宮外妊娠経験者も受け入れている事を知らされました。

早速インターネット上で見たその会のホームページは、私に大きな衝撃を与え、ずっと心の奥で押し殺していた悲しみの感情を激しく揺り動かし始めました。

子宮外妊娠もお腹の子供を亡くした事と見なしている人達がいる。そして、こんなにも多くの人達が私と同じように苦しんでいる。

とめどなく涙が溢れ、「一人じゃなかった」という感情で胸がいっぱいになりました。
そして同時に、その会に集う方々の訴える悲しみや苦しみが、過去の胸の内と重なり、切なさで胸が詰まりました。

もし、あの子を亡くした時この会と出会っていたなら、こんなに苦しむ事はなかったかもしれません。

心の奥にその時までくすぶり続けていた悲しみを表現する事で、「あの子と私の時計」の針がようやく前に進み始めた様な気がしました。

第12話 夫婦

死産・流産経験者の会と出会い、長年抱えてきた「理解されない苦しみ」をふっきる事ができた私は、大きく一歩前進したように感じました。
会の方々は、子供を亡くした状況は各々違っていても、胸に抱える悲しみや苦しみは私と同じでした。しかし、「子宮外妊娠は死産でも流産でもないのに、この会に加えてもらっていいのだろうか」という遠慮のようなものがありました。

その会と、メールでのやり取りの回数が増えるにつれ、同じ悲しみを抱える方々と親しくなりました。
気がつけばいつの間にか、以前持っていた遠慮は消え、子供を亡くした一人の親として自然に彼女達と接していました。

表に出せない悲しみ故に苦しんでいる方々の言葉は、私の感情を激しく突き動かし、私だけがこんな辛い思いを抱えて生きてきたわけではない事に気付かされました。そして、表に出す事ができず、心の奥深く閉じ込めてきた私の感情はブログ内で思い切り爆発し、制止できない状態となりました。

ブログ内で「子供を亡くした悲しみとあの子に会いたかった思い」の話題の回数が重なるにつれ、主人から「何度も何度もあの事を書くのはいい加減やめてくれ!」と苦言を言われました。

八年も経った子宮外妊娠を未だ引きずっている私を、心配して見るに見かねての言葉だったのでしょう。
今思えば、もしかしたら自分の心の古傷をえぐられ、たまらず発した言葉だったのかもしれません。

しかし私は、主人が眉をひそめ苦言を言う度、『男だから女の気持ちなんか分からないんだ。』と孤独感が更に深まりました。
無言での抵抗を繰り返し、頑なに感情を吐き出し続けました。

その様な中、ある人から、「子供はお腹の中に宿った時から既に魂も宿っている」という話を聞きました。

亡くなった子供が一つの命として認められ、喜びで涙がこみあげました。と同時に、長年供養一つ、手を合わせる事さえもしていなかったという申し訳なさで、胸は張り裂けんばかりでした。

主人にその思いを正直に伝え、最後にこう言いました。

「あの子を供養してやりたい」と。

主人は黙ってうなずきました。

主人と相談し、次の命日に水子供養を行う事となりました。
子宮外妊娠からまる九年。
初めて行う水子供養でした。

供養前に、様々な小物を買い揃えました。
線香立て・ろうそく立て・キャラクター入りのコップ・ぬいぐるみ・・。
それらの物は、何百円の小物ばかりでしたが、わが子のために一つ一つ選び、買い物する時間は実に充実した楽しいひとときでした。
また、当時産着一枚買ってやれなかったわが子に対する償いのときでもありました。

二月四日。私達の見守る中ささやかな水子供養が行われました。
読経の最中、私の涙が止まる事はありませんでした。
それは悲しみの涙ではなく、やっとあの子を一つの命として認めてやれたという喜びの涙でした。

供養が無事終了し、駐車していた車に乗り込む時主人はポツリと言いました。

「もっと早く供養してやれば良かったな。」

その時初めて、主人は主人なりの「亡くなった子供への思い」があり、様々な感情をずっと引きずって生きてきたんだという事に気付きました。

子宮外妊娠・不妊治療・・。
試練が目の前を立ちはだかる度、私達夫婦はぶつかり合ってきました。
その都度私は、主人は無理解だと心の中で責めながら一人嘆き悲しんでいました。

辛い時や苦しい時でも、労わりの言葉もなく、優しい言葉一つかけてくれる訳でもない。
一緒にいても常に自由で、新聞を読んだり、テレビを観てはケラケラと笑ったりしているような能天気な主人・・。

しかし今、過去を振り返ると、私の傍には必ず主人がいました。

子宮外妊娠のための緊急手術の時、主人の職場が遠方だった為、手術に間に合うよう制限速度をはるかに超えたスピードで車を飛ばし、病院にやって来てくれた事をほんの一ヶ月前に話してくれました。

体外受精の治療の過程でも、仕事の合間をぬっては私に付き添い、共に病院へと足繁く通ってくれていました。

私は、ずっと孤独だと思っていました。
しかし、今までの一つ一つの試練は、実は主人と共に苦しみ、乗り越えてきたものだったのです。
その事に気がつくまでに九年の歳月が経っていました。

第13話 かけがえのない経験

私は小さい頃、「お母さん」になる事に憧れていました。
時と共に将来の夢が変わっても、その気持ちはずっと変わりませんでした。

いつか結婚して子供を産んで、仕事も家事も育児もこなすキャリアウーマン。

それが私の描く未来像でした。子供は当たり前に生まれてくるものとばかり思っていました。

しかし、突きつけられた現実は、努力しても叶うかどうかわからない、儚くて切ない夢物語でした。

体外受精が失敗に終わる度、
「この一ヶ月費やした時間もお金も労力も、全て無駄になってしまった」と落胆し嘆いていました。

そして、心の中は辛さで不満と憤りばかりが占有していました。

現在、子供を持つ方々と関わる機会が増えました。
意外にも不妊治療によって子供を授かった方は多く、その方々の大半は今も尚、不妊治療に励んでいた当時を昨日の事のように覚えています。

「子供がなかなかできなくてね、この子ができるまで五年間治療したのよ。」
「何度も流産を繰り返して、もう駄目かと思ったけれど、この子だけは生まれてきてくれたのよ。」

現在の様子からは、当時の事を想像する事すらできません。
しかし、当時どんなに辛く苦しい思いをしてきたのか痛いほど伝わってきます。
苦しい事や悲しい事も、不妊治療の苦しみを思い返して乗り越えてきた事は、口に出さなくても同じ不妊治療経験者の私には分かります。
穏やかに話しながら、時には涙ぐみ、わが子へ優しい眼差しを向けるその瞳の奥に凛とした強さを感じます。

又、不妊治療で子供を授かったにも関わらず、その苦労や授かった事への感謝を忘れてしまった言動をする方も多く見受けられます。

不妊治療していた当時、長年子供に恵まれず、やっと授かったという女性と話した事があります。

その女性は、毎日の育児の大変さや子供がいなかった時代は如何に気楽だったか、切々と訴えていました。
その様子は、子供ができない私に対し、育児をしている事を自慢しているようにしか見えませんでした。

当時私は『子供を授かってしまえば、子供ができないと悩んでいた当時の事を忘れてしまうものなのか』と大きなショックを受け、深く傷つきました。

今思えば、きっとその女性も又、私と同じように悩み苦しんだ時代はあったはずです。その時代の事を忘れようとしても忘れられるはずもなく、忘れたかのように振舞うしかなかったのかもしれません。
あまりにも辛く苦しい日々だったから。もう二度と思い出したくない時代だから・・。

私たちの経験した辛くて苦しい「不妊治療」。
これは、当たり前に子供を授かった人は決して経験し得ないもの。
心身ともに傷つき、疲れ果て、心は荒む等、不妊治療はあまりにも多くの試練を与えてくれました。
しかし同時に、強さや優しさ、そして多くの「気付き」を与えてくれました。

「身を削る思いで受けた不妊治療」、「聞きたくないおめでたの報告」、「生理の度に流した涙」、それらは確実に私の血や肉となり、現在までしっかり支えてくれました。
厳しい現実の中、己の弱さを知る事で人の心の痛みを知りました。
「誰も分かってくれない」と、一人殻に閉じこもっていた私の傍には、いつも主人がいてくれる事に気付きました。

不妊治療から幾年もの歳月を経た今、私は思います。
不妊治療は決して無駄な経験ではありません。今までの人生において、何物にも優るかけがえのない経験でした。
きっとそれは、たとえ子供を授からなかったとしても、私たちを成長させる尊い経験に間違いなかったと、今も信じています。

不妊治療があったからこそ、多くの意味で今の私たちがあるのだと深く痛感しています。

第14話 主人の本音

今回は、主人に当時の気持ちを聞いて、それを綴りました。

結婚五年目、初めての妊娠で「子宮外妊娠の可能性が強い」と告げられた時、「子供ができた事に変わりはない!」と心の底から喜び、友人達にも即報告をしていました。そして偶然にも、主人の仲の良い友人二人の家庭でも奥さん達の妊娠が発覚したらしく、祝いの酒を酌み交わして能天気な程、無邪気に喜んでいました。当然、子供は無事生まれるものと信じ込み、子宮外妊娠の事や、その意味すら考えようともしていませんでした。
しかし、その約一週間後、子供という希望は儚く消え失せてしまいました。
当然、同時期に妊娠したその友人達の顔を見るのも辛く、なかなかその報告もできなかった様です。しかし、主人は当時を振り返りこう言いました。
「辛かったけど、虎之助(主人が勝手につけていた子供の名前)の存在を明らかに感じて喜べる瞬間だったので、人に妊娠の報告をした事を後悔はしていない。一端の父親になれた気分だった」と。

主人の会社へ電話をかけ「お腹が痛い(=即手術になるだろうという医者の事前告知は主人も承知)」と告げた時、「もう子供は駄目なのか?お前は大丈夫なのか?」と言い、不安と心配で会社を早退して急いで病院に駆けつけてきました。その道中も「どっちも死なないでくれ」との思い、そして、ほんの一パーセントでも子宮外妊娠ではない可能性を信じて、全く諦める事はなかったそうです。
病室で私の顔を見た時、「生きていて良かった」とまず安堵し、次に「今の子供の状況は?」と医師に詰め寄っていました。その後、医師から手術を受けなければならない旨の説明を受け、嫌が応にも現実を受け入れなければならない時を迎え、大きな衝撃を受けたそうです。
「待ちに待った妊娠なのに・・・」とショックを受けながら、私の方がはるかに辛いだろうと、自分自身の意識は殺して気丈に振舞っていました。

私の手術中の主人の様子を聞くと、ほとんど寡黙で、私の無事を祈りながら、頭の中では「将来虎之助とこんなことやあんなことを一緒にしたかった」等の叶わなかった夢を思い描いていたそうです。又、自分より後に結婚してすぐに子供を授かったにも関わらず離婚してしまった身近な人の事を妬んだりしていた様です。
今になって思えば、主人も言葉や態度に表さないだけで、私と同じ思いだったのだと改めて知らされます。

夫婦の間でこうも受け取り方が違ったのかと主人の話を聞いて驚きました。
子宮外妊娠手術での退院前説明の際、医師より「自然の妊娠は無理だろう。残された手段は体外受精しかない」と告げられました。私は大きなショックを受けましたが、意外にも主人は「へぇ、自然の妊娠は無理でも子供を授かる方法があるんだ。」と内容もわからずに能天気に希望だけをもったそうです。

実際、体外受精をする為、辛い治療に耐えながら通院する期間も、主人は相変わらず「体外受精をすれば妊娠できる」と何の根拠もなく簡単に考えていたようです。ちなみに夫婦そろって治療の説明を聞いていたにも関わらず・・・。
そして以前と変わらず、仲の良い友人達には、もう時期子供ができるだろうと吹聴していたみたいです。
私は「そんな事、他の人に簡単に言わないで!」とよく怒っていましたが、主人からすれば子供を持てる希望の事しか考えておらず、単純に嬉しかっただけの様です。
しかし、体外受精の回数が重なるにつれ、毎回の大きな期待の反動は、更に大きな落胆となって返ってきました。

最後にしようと決めていた三回目が失敗に終わった時、「我々夫婦が妊娠することはもう無理なんだ。」
と半ばやけになっていた様です。
私が四回目を挑戦したいと言った時、もうこれ以上落胆したくないという気持ちがとても強く、もう希望等考えず、端から百パーセント諦めていました。「万が一できればラッキーかな。でもまず無理だろう・・・。」としか考えておらず、私の意思が固かった為、気が済むように承諾してくれただけでした。

それ故に妊娠を知った時、天にも昇る気持ちだった様ですが、以前の子宮外妊娠の一件がトラウマとなり、正直素直に喜ぶ事ができませんでした。まずは「また子宮外妊娠ではないのか」と心配していました。
その心配が消えた後も、「せっかく授かった命。生まれるまで安心できない!」と慎重にならざるを得ませんでした。

私が切迫早産で長期入院を強いられた時、仕事もしながら家事もしなければならず大変だと思っていました。しかし主人は、面会時間以降は自由時間とばかりに、外にお酒を飲みに行って羽を伸ばしていました。
今、その事を問い詰めると「家に一人でいるとたまらない気持ちで押し潰されそうになる。」といかにも嘘っぽく照れくさそうに言いました。私は「これは、少しは本当ではないかな?主人なりの現実逃避だったのではないかな?」と思います。主人も態度に表さないだけで、常に不安があったのだと思います。
入院中の私の前では常に冗談ばかりでしたが、少しでも私の不安を和らげたかったのだと今思います。

最後に出産時の事について尋ねてみました。
帝王切開手術は予定以上に時間がかかり、不安で仕方なかったそうです。
生まれた子供は保育器に入れられ、「おめでとうございます」と一言だけ言われ、迅速に目の前を搬送されていきました。主人は何が何だかわからず、なぜこんなにあっという間に通り過ぎて行くのか?更に不安は増長するばかり。そして、やっと手術室から出てきた医師から「おめでとう」と言われ詰問したそうです。
「先生、子供は!」
「さっき見なかった?無事よ。未熟児だから迅速に小児科の先生に処置してもらう為に急いでいたのよ。」
「じゃあ、うちのかみさんは!」
「腸が癒着していたから剥がすのに手間取って時間がかかったけど大丈夫よ。」
子供と私の無事を初めて聞き、安堵と待ちに待った子供をやっと授かった喜びで、その場に崩れ落ちて大声を上げて泣き出したそうです。この事は後に直接、担当の先生からも伺いましたが、先生も驚いたそうです。

今、当時を振り返り思う事は、体外受精は私にとっても主人にとっても大きな試練だったという事です。
私と共に希望を持ち、落胆し、感情をぶつける私を必死で支えてきました。心身共に疲れ果てながらも治療に励む私を傍で見守ってきました。しかしそれらは全て、当時を振り返り、主人との話の中で分かった事です。

確かに、男性である主人と女性である私とでは、一つ一つの出来事の捉え方の違いはあります。その捉え方の違いで、「不妊治療の経験のない主人には、私の気持ちなんか分からないんだ」と一概に思い込んでしまっていた事、主人に対し申し訳なかったと今になって思います。

世の中には体外受精について、「医師と患者のみの共同作業である」という意見もあります。そういう方も多々いるかもしれません。しかし、私の体感として言わせてもらえるのであれば、『自然妊娠や人工授精、そして体外受精や顕微授精、全て「夫婦」と「医師」との共同作業に他ならない。』
これが実体験から得た私の正直な意見です。

最終話 最後に 読者の皆様へ

不妊治療をしていた当時、私は不妊治療経験者の声を聞きたいと願っていました。綺麗に並べられた言葉ではなく、偽りのない本心に触れたいと思っていました。

その思いがこの手記の礎となり、自分の心とずっと向かい合ってきました。
手記を綴る事で、不妊治療中、心にひっかかっていたキーワードを一つ一つ紐解いていきました。
自分の気持ちをごまかさず素直に表現する事は、想像以上に難しく辛い事でした。

今まで潜んでいた自分の弱さや当時の切ない思いを手記により改めて知る事となり、不妊治療も子宮外妊娠も未だ過去の出来事ではない事を痛感しました。

とは言え、今現在の私は、不妊治療をしている訳ではありません。
そんな私に、読者の方々の心に届くものが書けるかどうか常に不安でした。内容が現在に近づくにつれ、その不安や迷いは大きくなり、幾度も躊躇しました。しかし、「今の私だから伝えられる事があるはず」と自分に言い聞かせ、今日まで何とか書いてきました。

「今の私だから伝えられる事とは何か」
それは、手記を始めた段階から、ずっと考え続けていた事でした。

毎回のテーマと向き合う度、無意識のうちに伝えたいと願ったある強い思い。
それは、「一人じゃない」というメッセージでした。

妊婦や赤ちゃん連れの女性を見たくない気持ち。友人のおめでた報告に喜べない事への罪悪感。周囲から、「子供はまだ?」と度々言われる事への嫌悪感・・・。

当時これらを感じる私は、とても心の狭い、弱い人間なんだと自己嫌悪に陥り、私だけが感じる事だとずっと思い込んでいました。
又、感情をぶつけても期待通りの反応を示さない主人に対し、「無理解だ」と心の中で責めていました。

ずっと、「私は一人だ」と思っていました。

しかし、今はそう思いません。
私が当時抱いた感情は全て、多くの方々も同様に感じている事であり、とても自然な感情だと思います。そして、その感情を抱いているのは自分だけだと思っている方も多いのではないかと思います。

また、主人に関しても、口には出さなかったけれど主人なりの思いがあり私を気遣っていた事、今更ながら気付かされます。

当時の私は、「不妊の原因は自分にあるんだから、この苦しみの重荷は一人で背負わなければならない」と勝手に思い込んでいました。故に、「(不妊治療が)辛い」と洩らした事は一度もありませんでした。
弱音を一言でも漏らすと、二度と不妊治療に立ち向かう事ができなくなるような気がして、歯を食いしばり意地を張り続ける他ありませんでした。

今思えば不妊治療は、一人で背負うにはあまりにも重く、あまりにも辛い重荷でした。

もしも当時、私が背負うその重荷を、主人にもっと理解してもらおうとしていたなら・・。
「私は一人ではない」と、気付く事ができていたなら・・。

もしかしたら、その重荷は、背負いきれない程のものではなくなっていたかもしれません。

これが、不妊治療から長い歳月を経た今、私に伝えられる全てです。

今回、無事最終話を迎える事ができました。今はただ、一経験者として精一杯綴ったこの手記が、読者の方々の心に寄り添える物であって欲しいと願うばかりです。

この手記を読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
読者の方々の中には、心に閉じ込めていた感情が噴き出してしまい、辛い思いをされた方もいるのではないでしょうか。もしそうであるなら、本当に申し訳なく思います。
手記を読み、私のブログをわざわざ訪ねてくださった方々は、きっと遠い道のりだった事でしょう。
そして、皆様がくださったコメントやメールは、私にとって手記と向き合う原動力となりました。メールやコメントをくださった方々、本当にありがとうございました。

まるで厚い雲に阻まれたかのようにずっと立ち往生していた私も、手記を終え、ようやく雲の切れ間に広がる綺麗な青空を見つけたような、そんな気がしています。

「雲外蒼天」

これは、主人がとても好きな言葉です。

どんな厚い雲に阻まれていようとも、その向こうには綺麗な青空が広がっています。それを見つける日が、どなたにもいつか必ず来る事を信じつつペンをおきます。

2007年9月1日
早川 みどり



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